株価がついている会社を、株価がない会社にする仕事だった
四ヶ月、会社の名前を口に出さずに働いた――江本が、上場廃止の日に見るものがなかった案件の記録。
四ヶ月のあいだ、私は一度もその会社の名前を声に出さなかった。
社内でも、タクシーの中でも、実家でも。
案件の呼び名は、果物の名前だった。打ち合わせの予定表には、その果物の名前と、時間だけが入っている。
江本です。二十九歳。入社して七年目になる。
この案件のことを書くために、業種も、売上も、場所も、全部ずらして書く。ずらしても残るものだけを書く。
アサイン ―― 二月の木曜
二月の木曜の十九時過ぎに、マネージャーの泉さんから内線が来た。
「いま、三十分空いてる?」
会議室は、五階の奥にある鍵のかかる部屋だった。入るのに別のカードが必要で、私はそのカードを持っていなかった。
泉さんが外から開けた。
部屋の中で、泉さんは紙を一枚、机の上に置いた。
書いてあったのは、業種と、売上の規模と、上場している市場の区分だった。社名はない。
「この会社を、非公開化する検討の支援です」と泉さんは言った。
非公開化。上場をやめること。株価がついている会社を、株価がない会社にする。
やり方はMBOだった。社長が、投資ファンドと組んで、自分の会社の株を買い集める。買い集めて、上場を廃止する。
社長の持株は、創業家の分を合わせて十二・四パーセントだった。
残りの八十七・六パーセントは、他の人が持っている。機関投資家と、取引先と、それと個人の株主。
その人たちから、株を買う。買うための値段を決める。
私たちの仕事は、その値段の前提になる事業計画を検証して、非公開化したあとに何ができるかを積み上げることだった。
期間は四ヶ月。チームは、パートナーの志水さんと、泉さんと、私。三人。
関係者の数を、泉さんは最初に言った。
「向こうが四人、こっちが三人。七人です」
向こうの四人は、社長、経営企画の部長、CFO、それにファンドの担当者だった。
CFO以外の役員は、知らない。取締役会にも出ていない。
立ち上がり ―― 名前を書かない
最初の一週間で覚えたのは、仕事の作法だった。
資料は社名を書かない。「対象会社」と書く。
ファイルのタイトルも果物の名前にする。
紙は持ち出さない。鍵のかかる部屋の中にあるシュレッダーに、その日のうちに入れる。
クライアント先には行かない。打ち合わせは、ファンドの会議室か、うちのオフィスか、オンラインだった。
社長に会ったのは、四ヶ月で三回だけだ。
対象会社の工場も、一度も見ていない。写真と、設備の台帳と、建屋の図面で見た。
見に行くと、人が気づく。上場している会社に、知らないスーツが四人来れば、社内で話になる。
話になると、株価が動く。
だから行かない。
工場の床の写真が一枚、資料に入っていた。切削油で黒くなった床だった。
私はその写真を、たぶん二百回は見ている。
社長は六十七歳。創業者の孫で、二十二年社長をやっている。
最初に会ったとき、社長はこう言った。
「江本さん、株主総会って、何時間だと思います?」
分かりませんと答えた。
「二時間十五分です。去年は」と社長は言った。
「十一人から質問が出ました。そのうち七人が、同じことを聞きました」
同じことというのは、配当のことだった。
社長は、それを言ったあとで、少し笑った。
笑ったあとで、「べつに、嫌ではないんですけどね」と言った。
その「べつに」の前に、半拍の間があった。
三月から四月 ―― 計画を置く
私の主な作業は、事業計画の検証だった。
対象会社は、金属を削る工具を作っている。超硬の刃物で、自動車や建設機械の部品を削る。
売上は年間で三百四十億円くらいの規模で、国内が六割、アジアが三割。
会社が出していた中期の計画は、五年で売上を四百二十億円、営業利益率を九・五パーセントにするというものだった。
これを、私が検証した。
やったのは、過去十二年の売上を、顧客の業種別と地域別に分解して、工具の消耗のサイクルと、顧客の設備投資のサイクルに紐付ける作業だった。
二週間で、計画の前提が二つ、立っていないことが分かった。
一つは、アジアの伸び率を年八パーセントで置いていたが、過去五年の実績が年二・一パーセントだったこと。
もう一つは、新しい材種の工具の投入で単価が上がる前提だったが、その材種の量産が二度延期されていたこと。
私は、計画を引き直した。
五年後の売上を三百八十億円、営業利益率を七・四パーセントに置いた。
置いた理由は、実績の延長線に乗せたからだ。
泉さんは、「根拠は明確ですね」と言った。志水さんも「これでいきましょう」と言った。
私は、良い仕事をしたと思った。
その計画が、何に使われるかを、私はそのとき考えていなかった。
五月、気づいた
五月の中旬に、ファンドの担当者が、価格の話を始めた。
その人は三十四歳で、前はうちと同じ業界にいた人だった。
DCF法という評価の方法がある。将来のキャッシュフローを現在の価値に割り引く。
将来のキャッシュフローは、事業計画から作る。
私が引き直した計画から、株一株あたりの価値のレンジが出た。
会社が出していた計画から出るレンジより、十八パーセントくらい低かった。
買う側は、安いほうが都合がいい。
買う側は、社長とファンドだ。
売る側は、残りの八十七・六パーセントを持っている人たちだ。
私は、その日の夜、鍵のかかる部屋で一人になってから、自分の計算を上から下まで見直した。
間違いはなかった。
間違っていなかったのに、胃の下のほうが重かった。
私がやったのは、計画を実績に寄せる作業だった。それは分析として正しい。
ただ、私が「寄せる」と決めた幅には、私の性格が入っている。
私は、楽観的な数字を出して外すのが怖い。七年、それで評価されてきた。
その癖が、値段になっていた。
泉さんに、翌日の朝、そう言った。
泉さんは、少し黙って、こう言った。
「江本くんの計画は、独立した特別委員会が別の専門家にも見せます。そこで低すぎると言われれば直る」
それは手続きとして正しい。
「で、低すぎると言われると思いますか」と聞いた。
泉さんは、「思わない」と答えた。
それから、「だから、ここは我々の仕事の範囲じゃない」と言った。
範囲ではなかった。範囲ではないことは、本当だった。
特別委員会 ―― 五月三十日
非公開化の検討では、社長が自分の会社を買う形になる。買う人と売られる会社の社長が同じ人なので、構造として利益が相反する。
だから、社外取締役と社外の有識者で特別委員会を作る。委員会が、価格と手続きの妥当性を見る。
五月三十日に、その委員会に説明する回があった。
私は、志水さんの後ろに座った。説明はしない。数字を聞かれたときに答える係だった。
委員は三人。社外取締役の二人と、弁護士が一人。
社外取締役のうち一人は、元は銀行にいた七十代の方だった。もう一人は、別の業界で社長をやった六十代の方。
六十代の方が、私の計画について一つ質問した。
「アジアの伸びを二パーセントに置いた根拠は、過去五年の実績ですよね」
はい、と答えた。
「その五年は、現地の代理店が機能していなかった五年ですよね」
答えに三秒かかった。
その通りだった。私は、代理店の直販化という施策を、非公開化後の効果として積み上げている。
つまり私は、同じ五年の実績を、計画では「伸びない根拠」として使い、施策では「伸びる余地」として使っていた。
矛盾ではない。計画は現状の延長で、施策は打ち手を入れた後だ。説明はできる。
できるが、気持ちが悪い。
志水さんが答えた。「計画はスタンドアロンの前提で置いています。施策の効果は別建てです」
委員は、「分かりました」と言った。
そこで終わった。
委員会の時間は七十分だった。価格の話は、そのうち四十分あった。
結論として、委員会は価格を「不合理ではない」とした。引き上げの要請は出なかった。
出なかったことを、私はその日、少し安心して受け取った。
安心したことを、あとで何度か思い出した。
最終報告 ―― 六月二十四日
最終報告は、ファンドの会議室でやった。
出席は七人。全員だった。
私は五十一枚を、六十分で説明した。
内容は三つ。事業計画の検証結果。非公開化後に実行する施策と、その効果の金額。それと、実行の体制と時期。
施策は十一本あった。生産拠点の二箇所統合、取り扱いの材種の整理、アジアの販売代理店の直販化、間接部門の集約。
このうち六本が、上場しているあいだはやりにくいものだった。短期の利益が落ちるからだ。
社長は、生産拠点の統合の頁で、初めて質問をした。
「二箇所にすると、あの建屋はどうなりますか」
ファンドの担当者が、「売却の検討対象です」と答えた。
社長は、「あそこは、父が建てたんですよ」と言った。
誰も何も言わなかった。
十秒くらい経って、社長は「すみません、続けてください」と言った。
六十分の説明のあと、質疑が三十五分あった。
いちばん長く議論したのは、間接部門の集約で削る人数だった。
四十二人という数字を、私が書いていた。
最終的に、資料には「四十名規模」と書き換えた。書き換えたのは志水さんの指示だった。
理由は言われなかった。聞かなかった。
会議が終わって、ファンドの会議室を出たのが十七時二十分だった。
エレベーターで、泉さんが「お疲れ」と言った。
それだけだった。
打ち上げはなかった。七人でやる打ち上げというものは、成立しにくい。
生活 ―― 二十九歳
年収は九百四十万円だ。
家賃は十二万円。一人で住んでいる。
この案件の残業は、三月が六十二時間、四月が八十一時間、五月が九十四時間、六月が七十七時間だった。
鍵のかかる部屋は窓がない。五月の一ヶ月で、私は昼の空をほとんど見ていない。
眼が乾いた。目薬を一日に六回くらい差した。
付き合っている人がいる。三年目になる。
その人に、何の仕事をしているか言えなかった。
「製造業の案件」とだけ言っていた。四ヶ月それで通した。
四月に、「最近なんの話もしないね」と言われた。
私は「守秘があって」と答えた。
その人は「知ってる」と言った。「知ってるけど、なんの話もしないね」と言った。
その違いが、分かるのに三日かかった。
六月の末に、二人で寿司を食べに行った。一人一万二千円の店だった。
私がなぜその店を選んだのか、いまも分からない。四ヶ月分の何かを、金額で清算しようとしたのだと思う。
その人は、「おいしいね」と言った。
言い方が優しかった。優しかったことを、覚えている。
後記 ―― 翌年の三月
公表は七月の初めだった。TOBの価格は、公表前の一ヶ月の平均株価に対して、二十九パーセントのプレミアムがついた。
二十九パーセントは、こういう案件の相場からすれば、低くはない。
成立した。応募が集まって、九月に上場廃止になった。
私は、その日に特に何もしていない。別の案件の、別の業界の工場にいた。
十月に、実家に帰った。
父の弟が来ていた。この人は、長く信用金庫に勤めていて、株を少し持っている人だった。
その人が、夕食のときにこう言った。
「そういえば、〇〇、なくなっちゃったな」
社名を言った。
私は、箸を止めなかったと思う。止めなかったように振る舞った、という記憶がある。
その人は、その会社の株を百株持っていたと言った。十二年前に買ったらしい。
「売らされちゃってさ」と言った。
それから、「でも、まあ、あの値段なら悪くなかったかな」と言った。
私は「そうなんだ」と言った。
それ以外に言えることがなかった。
言えなかったのは守秘のせいで、言えなかったことの重さは守秘のせいではなかった。
百株。あの価格だと、二十万円台の後半になる。
私が計画の伸び率を一パーセント上に置いていたら、その人の手元に入る金額は、たぶん一万円くらい変わっていた。
一万円だ。
一万円のために、私が計画を変えるべきだったとは思わない。
ただ、私はあの四ヶ月、一万円の向こうに人がいることを、一度も計算に入れていなかった。
いまも、同じやり方で事業計画を検証している。
やり方は変えていない。変える理由を、まだ説明できないからだ。
その会社の工具は、たぶんいまも売られている。
削られた部品が入った機械を、どこかで見ていると思う。見ても分からない。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。