九年前の私は、この会社の説明会に行かなかった
選ばれない会社に、人を集める仕事だった――阿久津が、終電後の軌道の現場から戻って書いた案件の記録。
深夜の一時二十分に、私は砂利の上に立っていた。
ヘルメットをかぶって、反射材のついたベストを着て、支給された軍手をはめている。足元は借りた安全靴で、サイズが一つ大きかった。
線路の上だった。終電は過ぎている。始発まで三時間半ある。
阿久津です。三十一歳。この仕事は四年目で、新卒ではこの業界に入っていません。
アサイン ―― 五月
クライアントは、鉄道の設備を保守して工事する会社だった。
軌道、つまりレールと枕木と砂利の部分と、架線や信号の電気の設備。元請けは鉄道の事業者で、そこから工事と保守を請け負っている。
社員は六百四十人。売上は年間で百五十五億円。創業は五十八年前。
依頼は、新卒の採用だった。
採用の計画が毎年二十五人で、前年の入社が九人、その前が八人。
三年続けて、計画の半分も採れていない。
期間は四ヶ月。マネージャーの園部さんと、私と、一年目の真田さんの三人。
発注してきたのは、人事課長だった。三十四歳の方で、採用を一人で担当している。
最初の打ち合わせで、その人はこう言った。
「阿久津さん、うち、知ってましたか」
知りませんでした、と答えた。
その人は、「でしょうね」と言った。笑っていたけれど、笑っていなかった。
数字を分ける
最初の二週間で、前年の採用の数字を分解した。
エントリーが百四十件。会社説明会に来たのが四十八人。選考を受けたのが二十二人。内定を出したのが十四人。入社したのが九人。
辞退が五人。内定を出した十四人に対して、三十五・七パーセント。
落ちていくところが二か所あった。
一つは、エントリーから説明会参加まで。百四十が四十八で、三十四パーセントしか来ていない。
もう一つは、内定から入社まで。十四が九。
園部さんは、「どっちを直す案件?」と聞いた。
私は、「両方だと思います」と答えた。
園部さんは、「両方やると、どっちも薄くなる」と言った。
そのときの私は、前者を選んだ。母集団を増やすほうだ。
理由は、内定辞退は他社との比較で起きるので、こちらで動かせる幅が小さいと思ったからだった。
その判断を、八月に後悔した。
誰が応募してきていたか
六月に、過去三年の応募者のデータを見た。
志望の動機の欄がある。手書きのエントリーシートをスキャンしたものだった。
二百八十六人分を読んだ。真田さんと分けて、一人百四十三枚ずつ。
書いてあることは、だいたい同じだった。
鉄道が好きです。子どもの頃から電車に乗るのが好きでした。安全を支える仕事に携わりたいです。
鉄道が好きだという記述があったのが、二百八十六人のうち二百二十九人。八十パーセントだった。
一方で、この会社の仕事の中身を書けている人は、少なかった。
夜間の作業について触れていたのが、四十一人。十四パーセント。
つまり、応募してくるのは鉄道が好きな人で、その人たちは夜に砂利の上で働くことを知らずに来ている。
そして、同じ「鉄道が好き」な人たちは、元請けの鉄道事業者本体にも応募している。
本体の採用人数は、この会社の十倍以上ある。
同じ池で、十分の一の網を持って釣っていた。
深夜の現場
六月の二十四日、私は夜間の作業を見学させてもらった。
集合は、現場近くの詰所に零時四十分。
作業員は十四人。作業長は四十九歳の方で、この会社に二十六年いる。
作業は、レールの一部を交換するものだった。開始は一時二十分、終了予定は三時五十分。始発の前に線路を戻して、点検して、引き上げる。
砂利の上は、歩きにくかった。一歩ごとに足首が少しずれる。
六月の夜なのに、寒かった。線路の上は風が通る。
音のことを書いておく。
作業の音は大きい。削る音と、打つ音。ただ、その合間に、ものすごく静かな時間がある。
二時四十分くらいに、作業が止まった。待ちが入ったらしい。
そのとき、虫の音が聞こえた。線路の脇の草むらからだった。
作業長が、私の隣に来て、こう言った。
「見学の人、だいたいここで眠くなるんだよ」
眠くなかった。寒くて、頭は起きていた。
それから、作業長はこう言った。
「うちはな、好きで来た子のほうが先に辞めるんだよ」
私は、理由を聞いた。
「電車が好きなだけだと、これは電車じゃないからね」
その人は、線路を指して言った。
「これは、石と鉄だから」
三時五十五分に作業が終わった。詰所に戻って、四時二十分に解散した。
私は始発を待って、六時十二分の電車に乗った。座った瞬間に寝て、二駅乗り過ごした。
九年前のこと
その帰りの電車で、私は九年前のことを思い出した。
私は、大学四年の春に合同説明会に行っている。
大きい会場で、ブースが何十も並んでいた。紙袋を配られて、中にパンフレットを入れていく。
そのとき、設備や工事の会社のブースは、素通りした。
理由を、いま書ける。
一つ、名前を知らなかった。 二つ、ブースに人がいなかった。正確には、社員の方が二人いて、座っていた。 三つ、何をしている会社か、ブースの看板を見ても分からなかった。
私が入ったのは、アパレルの会社だった。店舗の販売から始まって、一年半で辞めた。
辞めた理由は、ここには書かない。
九年前の私は、たぶん今回のクライアントのブースの前を、三秒以内で通過している。
その私を連れてくる方法を考える仕事を、いま私がしている。
訴求を変える
七月に、母集団の施策を作った。
いちばん大きく変えたのは、訴求の言葉だった。
「鉄道を支える仕事」をやめた。
代わりに、「夜に働く」ことを前に出した。
募集の一枚目に、働く時間を書いた。夜間の作業が月に何回あるか。日勤と夜勤がどう組まれているか。夜勤明けの翌日はどうなるか。
給与も書いた。初任給が二十三万八千円で、夜勤の手当が一回につき六千二百円。年間の平均で手当が五十四万円くらいつく。
休みの形も書いた。土日が固定ではない。年間休日は百十八日。
隠していたことを、全部先に書いた。
人事課長は、最初に「これ、来なくなりませんか」と言った。
私は、「来る人が変わります」と答えた。
それと、経路を増やした。
工業高校と高専への訪問を、年四校から十四校に増やした。ここは夜勤に対する抵抗が、大学生より小さい。
夜間の作業の現場見学を、採用の工程に入れた。選考の前に、実際に線路の上に立ってもらう。
この見学は、人事課長が最初に反対した。
「見たら、半分来なくなります」
私は、「来なくなった半分は、内定辞退になる半分です」と言った。
言い方が強かったと思う。
人事課長は、しばらく黙って、「やりましょう」と言った。
八月に気づいたこと
七月の終わりに、辞退した人のデータを見直した。
ここを最初に見ていなかったのが、私の失敗だった。
過去三年の辞退が、合わせて十三人。辞退の時期を並べると、十三人のうち十人が十月以降だった。
この会社は、内定を六月から八月に出している。
内定から入社までが、七ヶ月から九ヶ月ある。
その期間に、会社が内定者と接触した回数を、人事課長に聞いた。
内定式が一回。それと、年明けに書類の郵送が一回。
二回だった。
人事課長は、「手が回らなくて」と言った。
その人は一人で採用をやっている。説明会も、面接の調整も、学校訪問も、入社の手続きも全部だ。
責める気にはならなかった。
ただ、私が五月に「内定辞退はこちらで動かせる幅が小さい」と判断した根拠は、何もなかった。
動かせる幅があったかどうかを、私は調べずに決めていた。
八月に、内定者のフォローの設計を追加した。現場見学をもう一度、先輩社員との一対一を二回、グループでの面談を二回。
ただ、この施策が効くのは、翌年の採用からになる。
真田さんが数えたもの
一年目の真田さんは、この案件で他社の募集要項を集めていた。
同業と、近い業界と、学生が併願しそうな会社。全部で六十二社分を集めた。
八月の初めに、真田さんが一つ持ってきた。
夜勤がある会社の募集要項のうち、一枚目に夜勤のことを書いていた会社が、六十二社のうち七社しかなかったという話だった。
真田さんは、「みんな隠してますね」と言った。
私は、「隠してるんじゃなくて、書くと減ると思ってるだけ」と答えた。
それから、「私も五月はそう思ってた」と言った。
真田さんは、「え、そうなんですか」と言った。
そうだった。五月に私が作った第一版の募集要項の案は、「鉄道の安全を支える」という言葉が一枚目にあった。
その案は、人事課長にも見せていない。自分で捨てた。
捨てたのは、現場に行った六月の二十四日のあとだ。
ブースに立った
八月の二十日に、合同説明会があった。
人事課長と、人事の担当の方が一人、それと私が行った。真田さんも来た。
ブースは、会場の奥から三列目だった。間口が三メートルくらい。椅子が六脚置いてある。
開場して最初の四十分、誰も来なかった。
隣のブースは、通信系の会社で、列ができていた。立ち見の人が、うちのブースの前に背中を向けて立っていた。
人事課長は、座っていた。
九年前に私が見た光景と、同じだった。
私は、ブースから一歩出て、通路に立った。立って、歩いてくる人に声をかけた。
「夜に働く仕事に興味ありませんか」
十五人くらいに声をかけて、二人が足を止めた。
一人は、三十秒聞いて行った。もう一人は、椅子に座って十二分話を聞いた。
その人は、工学部の三年生だった。
帰りに、人事課長が「阿久津さん、ああいうのやるんですね」と言った。
私は、「資料を作るだけだと、たぶん分からないので」と答えた。
本当は、それだけではなかった。
九年前に素通りした側の人間として、なぜ素通りしたのかを、通路から確認したかった。
確認して分かったのは、通路に立っている人の顔は、よく見えるということだった。
座っている人には、その顔が見えない。
その日、来場者とブースの会話の件数を数えた。四十一件。前年の同じイベントは、十四件だったと聞いた。
数が三倍になったのは、二人が通路に立ったからだ。施策の名前はつけられない。
資料には、「ブース運営の見直し」と書いた。
書いた言葉と、やったことの距離を、いまも少し覚えている。
最終報告 ―― 九月十二日
九月十二日の十五時から、最終報告をした。
出席は、社長、専務、管理部門の役員、工事と保守の部長が二人、人事課長、それに現場から作業長が一人。八人だった。
作業長が出てきたのは、社長が呼んだからだと聞いた。
私は、三十一枚を四十五分で説明した。
実績は、この年の採用で一部もう出ていた。
エントリーが二百九十四件。前年の百四十から二・一倍になった。
説明会に来たのが百十二人。選考を受けたのが五十八人。内定が二十四人。
夜間の現場見学を選考の前に入れたので、そこで降りた人が十九人いた。
最終の入社は、翌年の四月まで分からない。
社長は、「増えましたね」と言った。
それから、作業長に向かって、「どうだ」と聞いた。
作業長は、「見学に来た子は、まあ、分かってますね」と言った。
それだけだった。
私はその一言を、いちばんの成果として受け取った。
生活 ―― 三十一歳
年収は八百二十万円だ。
家賃は十一万二千円。一人で住んでいる。
この案件の私の残業時間は、五月が五十四時間、六月が七十一時間、七月が八十八時間、八月が七十六時間だった。
六月に夜間の現場に二回行って、その週は昼と夜が入れ替わった。
二回目の翌日、三十八度の熱が出た。病院では、疲れだろうと言われた。
一日寝て、次の日から出た。
その週、私は作業長に「夜勤、何年やってるんですか」と聞いていた。
二十六年だと言われた。
私は二回で熱を出した。それを、誰にも言わなかった。
八月に、実家に電話をした。
母が、「いまどこの会社の仕事してるの」と聞いた。
鉄道の設備の会社だと答えた。
母は、「じゃあ、電車に詳しくなった?」と言った。
詳しくなっていない。私が詳しくなったのは、砂利の歩きにくさと、夜勤手当が一回六千二百円だということだ。
それを言っても伝わらないと思って、「うん」と答えた。
後記 ―― 翌年の夏
翌年の四月に、十六人が入社した。前年の九人から増えた。
内定が二十四人で、入社が十六人。辞退は八人。
辞退率は、三十三・三パーセントだった。
前年が三十五・七だから、二・四ポイントしか動いていない。
内定者のフォローの施策は、この年には間に合っていない。設計が八月で、内定出しがもう始まっていたからだ。
母集団は二倍になった。辞退率は、ほぼそのままだった。
採れた人数が増えたのは、分母が増えたからだ。私が直したのは、一か所だけだった。
もう一つ、書いておく。
辞退した八人に、人事課長がアンケートを取った。これは私が設計した。自由記述の欄を一つ置いた。
五人が書いてくれた。
そのうちの一人の記述を、私は覚えている。
「夜勤の話を、最後まで誰も自分の言葉で話してくれませんでした」
この人は、現場見学に来ている。募集の一枚目も読んでいる。
書いてあることと、人が自分の言葉で話すことは、別だった。
私はこの一行を、最終報告の資料に入れなかった。
入れなかった理由は、報告が九月で、アンケートが翌年の二月だったからだ。時期が合わない。
それは本当だ。本当だけれど、翌年の報告にも入れていない。
入社した十六人のうち、一人を私は覚えている。
六月の現場見学に来た学生で、見学のあとに「思ったより静かでした」と言った人だ。
その人は、いま二年目になる。まだ辞めていない。
作業長の言った「好きで来た子のほうが先に辞める」という話が、合っているのかどうかは、まだ分からない。
分かるのは、たぶん五年後だ。
私は、その頃にはこの会社の担当ではない。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。