名前を書けない資料を、いちばん長く見ていたのは僕だった
候補者の名前を記号に置き換える作業から、この案件は始まった――日下部が、施錠された会議室の外側で書いた案件の記録。
最初にやった作業は、名前を記号に置き換えることだった。
五人の氏名と、役職と、生年月日が書かれた一覧をもらって、それをA、B、C、D、Eに変換する。対応表は一枚だけ作って、紙で保管する。
その作業に、僕は四十分かけた。四十分かかる作業ではない。
日下部です。二十八歳。入社して五年目になる。
アサイン ―― 二月
クライアントは、電線とケーブルを作っている会社だった。
上場している。売上は千百八十億円、社員は二千四百人。送電や建設向けの電力ケーブル、自動車の電装部品、通信用のケーブル。創業は七十三年前。
社長は六十八歳で、在任は九年目だった。
二年前に指名委員会を作っている。社外取締役が三人と、社長が一人の四人構成。
ただ、この二年の議事録を読むと、やっていたのは役員の報酬の確認と、再任の確認だけだった。
依頼は、後継者計画を整備すること。それと、次期社長候補の評価の設計と、委員会の運営を支援すること。
期間は六ヶ月。
チームは三人だった。パートナーの柊さん、マネージャーの的場さん、それと僕。
的場さんは、最初の打ち合わせでこう言った。
「この案件、人を増やさない。増やせないから、日下部さんが全部やる」
社内でも案件名は出さないと言われた。工数の記録には、別の名前で入力した。
僕がやった仕事
六ヶ月で僕がやったことを、順番に書く。
一つ、求められる社長像を作った。
中期の経営課題から逆算する。この会社の課題は三つあった。電力向けの国内需要が公共投資に依存していること、自動車の電装が電動化で構造ごと変わること、海外の売上比率が十九パーセントで止まっていること。
そこから、必要な要件を七つに整理した。資料の様式を三回作り直した。
二つ、候補者を絞った。
執行役員以上が十一人いて、年齢と役職と、過去五年の担当事業の業績で一次の絞り込みをした。五人になった。
三つ、評価の方法を設計した。
外部の機関にアセスメントを依頼する。インタビューと、適性の検査。委員が一人ずつ面談する。過去の業績を事業環境で調整して見る。
社内の三百六十度評価は、入れなかった。入れると、候補者の部下に「上が選ばれようとしている」と伝わる。
四つ、会議の運営をした。
資料は紙だけにした。会議の前に番号を振って配り、終わったら全部回収する。回収した紙は、その日のうちにシュレッダーにかけるか、総務の金庫に入れる。
会議室は、使う三十分前から施錠した。鍵は僕が持った。
五つ、年齢と任期の表を作った。
これを、僕は最初に作ってしまった。
最初に出した要件は、全部戻ってきた
三月の初めに、求められる社長像の第一版を出した。
僕が書いたのは、こういう項目だった。
構想力。実行力。人材育成。財務の規律。グローバルな視点。ステークホルダーとの対話。変化への適応。
委員長は、一枚目を読んで、「これは、どの会社でも使えますね」と言った。
使えます、と僕は答えた。答えてから、それが褒め言葉ではないことに気づいた。
委員長は、「うちの会社の次の社長に要るものを書いてください」と言った。
僕は、その週に事業の数字を全部もう一度見た。
電力ケーブルの売上が六百二十億円で、そのうち公共の案件が四割強。この四割の予算は、五年先までは読めるが十年先は読めない。
電装の売上が二百九十億円で、営業利益率が二・一パーセント。ここは投資をするか撤退するかのどちらかしかない。
海外は、生産拠点が二か所あって、どちらも工場の稼働が計画を下回っている。
そこから書き直した要件は、たとえばこうなった。
「十年以上回収のかからない設備投資について、取締役会で反対が出る状況でも決めきれること」
「現在の主力事業の売上構成比を、自らの任期中に意図的に下げる判断ができること」
二つ目を書いたとき、僕は少し手が止まった。
主力事業の本部長が、候補の一人だったからだ。
この一行を要件に入れると、Dは不利になる。入れないと、要件が会社の課題を映さない。
僕は、入れた。入れて、そのことを的場さんに言わなかった。
的場さんは、資料を読んで何も言わなかった。気づいていたのか、気づいていなかったのかは分からない。
五人
A、五十九歳。海外事業の本部長。十二年前に海外に出て、七年向こうにいた。英語ができる。 B、五十四歳。技術開発の担当役員。この会社でいちばん若い役員だった。工場の経験が長い。 C、五十六歳。財務の担当役員。中途入社で、入社は十一年前。銀行から来ている。 D、六十一歳。主力の電力ケーブル事業の本部長で、常務。社内の序列ではいちばん上にいた。 E、五十一歳。電装事業の部門長。執行役員。
僕は、二十八歳だった。
Eが五十一歳で、僕との差が二十三歳だ。Dとは三十三歳違う。
この差を、僕は案件の途中で何度も数えた。数えて、何の意味もないことを確認して、また数えた。
年齢と任期の表
三月の末に、僕は一枚の表を作った。
社長の任期を仮に六年と置いて、就任したときの年齢と、任期を終えたときの年齢を並べた表だ。
Aが五十九歳で就任すると、六十五歳で終わる。 Bが五十四歳なら、六十歳。 Cが五十六歳なら、六十二歳。 Dが六十一歳なら、六十七歳。 Eが五十一歳なら、五十七歳。
この会社の歴代の社長の就任年齢の平均が、五十七・二歳だった。退任時の平均は、六十四・八歳。
表の下に、この二つの平均を書いた。
四月の二度目の委員会で、僕はこの表を資料の三枚目に置いた。
置いた理由は、分かりやすいからだ。候補者の顔が見えない段階で、委員の方が全体像を掴むのに役立つと思った。
委員長は、六十六歳の弁護士の方だった。社外取締役を三社で務めている。
その人は、三枚目を見て、「Dは、任期の途中で七十になるのか」と言った。
僕は、「六年だと六十七歳です」と答えた。
委員長は、「六年もやらないかもしれないがな」と言って、次のページに進んだ。
その日の議論は、それだけだった。二十秒くらいだったと思う。
そのあとで起きたこと
アセスメントの結果が出たのは、六月の初めだった。
五人の結果は、僕が予想していたものとかなり違った。
戦略的な思考の評価がいちばん高かったのはCだった。銀行から来た人だ。 組織を動かす力の評価がいちばん高かったのはD。 Bは、変化への対応と学習の指標が高く、対人の調整が五人の中で四番目だった。 AとEは、どの指標も真ん中だった。
六月十七日の委員会で、この結果を説明した。
説明のあと、委員の一人が「Dの評価は高いな」と言った。
もう一人の委員が、「でも、年齢がね」と言った。
委員長は、何も言わなかった。
その場で、Dの名前は、それ以降の議論にほとんど出てこなくなった。
アセスメントの結果でいちばん高い評価がついた項目を持っていた人が、年齢の一言で後ろに下がった。
僕は、それを議事録に書こうとした。
社長の面談
六月の十八日に、委員長が社長と一対一で面談をした。
議事の記録を取るために、僕が同席した。部屋の端に座って、ノートに書いた。
委員長は、最初に「社長、ご自身の後任について、いまどうお考えですか」と聞いた。
社長は、少し笑って、「難しいね」と言った。
それから、こう言った。
「九年やってるとね、自分がいなくなった会社を想像するのが、仕事になるんだよ」
委員長が、「想像できますか」と聞いた。
社長は、「できる日とできない日がある」と答えた。
その会話を、僕はそのまま書いた。
議事録に残すかどうかを、あとで的場さんと相談した。
的場さんは、「残さない」と言った。理由は、委員会の議事ではなく、面談の記録だからだと。
形式としては正しい。
僕はその会話を、自分のノートにだけ残した。ノートは案件の終わりに回収されて、裁断された。
だから、いまここに書いているのは、僕の記憶だ。正確ではないかもしれない。
「できる日とできない日がある」という一文だけは、合っていると思う。
議事録
六月十九日に、議事録のドラフトを委員長に出した。
僕が書いた一行は、これだった。
「Dについては、就任時および任期終了時の年齢の観点から、慎重な意見があった」
委員長は、その行に線を引いて、「これは消しておいてください」と言った。
理由を聞いた。聞けたのは、僕がその場に二人でいたからだ。
委員長は、「年齢だけを理由にした議論を残すと、記録として適切でない」と言った。
それは、たぶん正しい。
それから、こう付け足した。
「それに、本当に年齢の話だけだったと思いますか」
僕は、思っていた。思っていたと言えなかった。
議事録には、「複数の観点から意見交換が行われた」と書いた。
いまも、この一行を自分が書いたことを覚えている。
エレベーター
七月の初め、本社のエレベーターでDに会った。
二人だけだった。一階から六階まで。
Dは、僕の社員証を見て、「君、何の仕事してるの」と聞いた。
僕は、「コーポレートガバナンスの関係で、総務部のお手伝いをしています」と答えた。
嘘ではない。契約上の窓口は総務部だった。
Dは、「ふーん」と言って、それから「大変だね」と言った。
四階で誰かが乗ってきて、それで終わった。
その日の夜、僕はこの会話を的場さんに報告した。
的場さんは、「よくしのいだね」と言った。
しのいだ、という言葉が、しばらく頭に残った。
僕は、その人の六年後の年齢を表の一行に書いて、その表を会議の三枚目に置いた人間だった。それをしのいだと言われた。
中間報告 ―― 七月二十二日
七月二十二日に、委員会に中間の整理を出した。
出したのは、要件の七項目と、五人の評価の総括、それと今後の進め方だった。
総括のページでは、五人を順位づけしなかった。
順位づけしない、というのは柊さんの判断だった。
柊さんは、「順位を出すと、委員会が選ぶ会議ではなくなる」と言った。資料が選んで、委員が承認する会議になると。
代わりに、要件の七項目ごとに、誰が強く誰が弱いかを並べた。
委員長は、そのページを長く見ていた。
それから、「これは、読む側に仕事をさせる資料ですね」と言った。
褒められたのだと思う。
ただ、その会議で最初に名前が出たのはBだった。出したのは社長だった。
社長は、こう言った。
「若いほうがいいと思うんだよ、今回は」
僕の表の一行が、そのまま言葉になって出てきた。
因果があるのかは分からない。社長が元からそう思っていた可能性のほうが高い。
それでも、僕はその日、帰りのエレベーターで自分の資料のことを考えていた。
生活 ―― 二十八歳
年収は七百八十万円だ。
家賃は九万八千円。会社から電車で二十五分のところに住んでいる。
この案件の僕の残業時間は、二月が五十二時間、三月が六十八時間、四月が七十一時間、五月が六十三時間、六月が八十四時間、七月が七十七時間だった。
数字で見ると、たいした案件ではない。徹夜は一度もしていない。
しんどかったのは、別のことだった。
誰にも話せなかった。
社内の同期にも話せない。案件名を言えないから、「人事系」としか言えない。
二月から八月まで、僕がこの案件について話した相手は、柊さんと的場さんの二人だけだった。
六月に、大学の友人と飲んだ。その友人は事業会社にいて、最近つまらないと言っていた。
僕は、「こっちも地味だよ」と言った。
本当は、その週に五十九歳の人の適性検査の結果を読んでいた。
地味だよと言ったとき、喉の奥が少し変な感じがした。
もう一つ書いておく。
紙が重かった。
資料は、委員四人分と事務局用で五部。一部が六十枚くらい。それを持って会議室に行って、終わったら回収して、シュレッダーにかける。
六ヶ月で、たぶん三千枚くらいを裁断した。
シュレッダーは総務のフロアにあって、一度に五枚しか入らない機種だった。
七月の委員会のあと、僕は二十二時にその前に立って、十八分かけて裁断した。
終わって、コンビニでおでんを買った。大根とこんにゃく。二百九十円だった。
レジの横の湯気を見ながら、僕は五人のうち誰が選ばれるかを考えていた。
最終報告 ―― 八月
八月の二十日に、最終の整理を出した。
成果物は、後継者計画の規程、要件の定義書、評価の様式、委員会の運営の手引き、それと今後三年のスケジュールだった。
誰を選ぶかは、委員会が決める。僕たちは決めない。それが契約だった。
最後に委員長が、僕にだけ一つ聞いた。
「日下部さん、あなたはどう思いましたか」
僕は、「申し上げる立場ではありません」と答えた。
言ってから、ずるい答えだと思った。
委員長は、「そうですね」と言って、それで終わった。
後記 ―― 翌年の六月
翌年の二月の取締役会で、Bが社長に選ばれた。
五十五歳になっていた。六月の株主総会で就任した。
Dは、同じ総会で退任した。
退任の理由は、公表された資料では任期満了だった。実際のところは、僕は知らない。
Cは、副社長になった。AとEは、役職がそのままだった。
僕の表の一行が効いたのかどうかは、誰も教えてくれなかった。
聞ける相手もいなかった。柊さんはその後に異動して、的場さんは別の会社にいる。
一つだけ、はっきりしていることがある。
六ヶ月のあいだ、あの五人の資料をいちばん長い時間見ていたのは、委員長でも社長でもなく、僕だった。
紙を配ったのも、集めたのも、裁断したのも僕だ。
名前を記号に置き換える作業に四十分かけたのも、僕だった。
あの四十分のあいだ、僕は五人の生年月日を何度も見ていた。見ながら、自分の生まれた年との差を引いていた。
いま、対応表はどこにあるのか知らない。総務の金庫に入れたまま、僕は引き継ぎの書類にその番号だけを書いた。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。