寮の二階には、三つの台所の匂いがありました
受け入れるというのは、働く場所だけでなく住む場所を決めることでした――服部が、借り上げ寮の階段の途中で書いた案件の記録。
六月の十一日、水曜日の十九時すぎに、私は借り上げの寮の二階にいました。
二階には部屋が三つあって、廊下の突き当たりに窓があります。その窓が開いていて、三つの部屋から別々の匂いがしていました。
どれもご飯を炊く匂いと、何かを炒める匂いでした。ただ、油と香辛料が違いました。
私はその廊下に、たぶん二分くらい立っていました。
服部です。三十九歳。この仕事は四年目で、その前は自治体の国際交流協会にいました。
アサイン ―― 四月
クライアントは、訪問介護と小規模多機能の施設を運営している会社でした。
事業所は十二か所。職員は二百九十人で、常勤に換算すると百八十人くらい。売上は年間で二十六億円です。
依頼は、外国人の介護人材の受け入れ体制を作ることでした。
翌年度から受け入れたい。でも、何から手をつければいいか分からない、と。
期間は五ヶ月。マネージャーの飛田さんと、私と、二年目の若林さんの三人です。
私がこの案件に入ったのは、前職のせいでした。
アサインの連絡をくれた人は、「服部さん、そういうの詳しいでしょう」と言いました。
私が前の職場でやっていたのは、日本語教室のボランティアの名簿管理と、相談窓口の通訳の手配と、多文化共生の計画の進捗を会議にかける仕事です。
在留資格の実務は、専門ではありませんでした。
そう言ったのですが、「じゃあ調べれば分かるよね」と言われました。それはそのとおりでした。
制度を並べる
最初の三週間は、制度を調べて並べる作業でした。
介護の分野で外国の方が働く経路は、いくつかあります。それぞれ、必要な日本語の水準、在留できる期間、家族の帯同ができるかどうか、受け入れ側に求められる体制が違います。
経路によって、受け入れまでの期間も違いました。短いものでも六ヶ月くらい、長いものは一年半かかります。
費用も違いました。
私は、一人を受け入れるのにかかる初年度の費用を積みました。
募集と選考、現地での日本語の学習、入国前後の手続き、支援委託の費用、渡航費、住居の初期費用、健康診断、入職後の日本語学習の補助。
経路によって、九十五万円から百四十万円の幅になりました。
この数字を出したとき、理事長は「思っていたより高いですね」と言いました。
それから、「でも、求人広告に年間で四千万円使って、八人しか採れてませんから」と言いました。
その八人のうち、一年以内に辞めたのが三人だとも言われました。
訪問には出せない
四月の終わりに、一つ大きな論点が出ました。
この会社の売上の六割は、訪問介護です。
訪問介護は、職員が一人で利用者さんの家に行きます。鍵を預かっている家もあります。
受け入れたばかりの方を、そこに一人で出すことはできません。経路によっては制度上の制約もありますし、実務としても無理です。
記録も書きます。介護の記録は日本語で書かないといけません。手書きの事業所もありました。
つまり、受け入れた人が最初に働けるのは、小規模多機能の施設のほうでした。
小規模多機能の事業所は、十二か所のうち四か所です。
その四か所に、職員は合わせて六十八人いました。
ここで、私は計算を一つしました。
受け入れた方を指導する担当者が必要です。一人の指導者が同時に見られるのは、現場の方に聞いた限り、二人までだろうと。
四か所に、指導を任せられる職員は、合わせて九人でした。常勤で、三年以上の経験があって、記録の指導ができる方です。
九人掛ける二で、十八人。これは同時に受け入れられる理論上の上限です。
ただし、その九人には自分の仕事があります。
六人
五月に、私は初年度の受け入れ人数を六人と置きました。
四か所に、一か所あたり一人か二人。指導担当は六人をあてて、三人は余らせます。
飛田さんに見せたとき、「少なくない?」と言われました。
少ないです、と答えました。
ただ、この会社は一年に八人しか採れていなくて、三人辞めています。初年度に十二人入れて、指導が回らずに辞められるほうが、損失が大きいと思いました。
飛田さんは、「それ、理事長に説明できる?」と聞きました。
説明の材料を作りました。一人が辞めたときの損失を積んだのです。初年度費用の九十五万円に、指導にかかった時間の人件費、採用のやり直し、それと現場の士気。
最後の一つは、金額にできませんでした。金額にできないと書きました。
若林さんが見つけたこと
二年目の若林さんは、この案件で他の事業者の事例を集めていました。
公表されている取り組みや、業界団体の報告書、自治体の資料です。
五月の下旬に、若林さんが一つ持ってきました。
受け入れた方の離職の理由を集めた調査で、いちばん多かったのが「日本語が難しい」ではなかったという話でした。
多かったのは、収入と、人間関係と、住む場所の環境でした。
若林さんは、「日本語の設計ばっかりやってていいんですかね」と言いました。
その時点で、私が作っていた資料のうち、日本語の学習計画が十一枚ありました。住居については、二枚でした。
私は、「順番に作ります」と答えました。
いま思うと、順番の問題ではありませんでした。私が、自分がいちばん詳しいつもりの領域から作っていただけです。
寮を設計する
六月に、住居の設計をしました。
会社は、二か所の借り上げ寮を考えていました。事業所から自転車で十分くらいのところにある、二階建ての物件です。
一棟に六部屋あります。一階と二階に、三つずつです。2LDKで、一部屋に二人ずつ。
初年度に借りるのは、三部屋でした。一か所の寮で二部屋、もう一か所で一部屋。六人分です。
家賃は一部屋が六万八千円で、本人の負担を一万八千円にする案でした。
ここで、私は一つ決めました。
同じ国の方を、同じ部屋にしない。
理由は二つ書きました。
一つ、部屋の中でも日本語を使う時間を作りたい。 二つ、特定の国の方だけで固まると、事業所の中でも分かれてしまう。
その二つは、前の職場で何度も聞いた話でした。実際、そう言っている自治体の資料もありました。
冒頭に書いた六月十一日、私は実際に寮を見に行きました。入居はまだ始まっていません。先に入っている別の会社の方がいて、その三部屋から匂いがしていたのです。
三つの匂いが、廊下で混ざらずに分かれていたのを覚えています。
私はその廊下で、自分の部屋割りの案は正しいと思いました。
反対していた人
六月の下旬、事業所の一つで説明会をしました。
職員の方が十九人集まりました。
質問は、三つ出ました。
利用者さんが嫌がらないか。記録は誰が直すのか。自分の残業は増えるのか。
三つ目を聞いたのは、五十八歳のヘルパーの方でした。この会社に十九年いる方です。
その人は、こう言いました。
「教えるのは、結局わたしらですよね」
私は、指導担当に手当をつける案を説明しました。月に一万五千円です。
その人は、「お金の話じゃないんですよ」と言いました。
それから、「あと、うちの担当の方、たぶん無理って言うと思います」と言いました。
実際、七月に一軒断られました。九十一歳の方のお宅で、ご家族が「ちょっと不安で」と言われたそうです。
訪問の担当なので、今回の受け入れとは直接関係のない家でした。それでも、その話は事業所の中でかなり広まりました。
面接に立ち会う
七月の初めに、現地とのオンライン面接に立ち会いました。
送り出す側の機関が候補者を集めてくれて、画面の向こうに八人が順番に座ります。
一人十五分でした。
こちら側は、施設長と人事の方と、私です。質問は事前に決めてありました。介護の経験、日本語、家族のこと、将来のこと。
四人目の方が、自己紹介のあとにこう言いました。
「わたしは、おばあちゃんと、十四年、いっしょに住みました」
その方の日本語は、他の候補者より少しゆっくりでした。文法も、完全ではありませんでした。
面接のあと、施設長は「あの四番目の方がいいと思います」と言いました。
人事の方は、「日本語だと三番目ですね」と言いました。
二人の意見は違っていました。
私は、どちらにも理由があると思いました。思ったので、評価の様式を作り直しました。
日本語の点数と、介護の適性の点数を分けて、重みをつけたのです。日本語は四割、適性と意欲で六割にしました。
その重みの根拠は、私が決めたことです。根拠らしい根拠はありません。資料には「現場のご意見を踏まえ」と書きました。
四番目の方は、来ました。いま三年目です。
重みを逆にしていたら、来ていませんでした。
中間報告 ―― 七月十五日
七月十五日の十四時から、中間報告をしました。
出席は、理事長、常務理事、人事の責任者、四つの小規模多機能の事業所の施設長、それに訪問の統括の方。九人です。
私は、三十四枚を五十分で説明しました。
初年度六人、三年目までに累計で二十二人。経路は二つを併用。指導担当に手当。寮は二か所、部屋割りは混成。日本語の学習は週二回で勤務時間内に一回を含める。
理事長は、最初に「六人は少ないですね」と言いました。
私は、指導できる九人の話をしました。九人のうち六人を使って、三人を残す設計だと。
理事長は、「十二人でいけませんか」と言いました。
私は、「いけますが、辞める確率が上がります」と答えました。
そこで、施設長の一人が発言しました。四十五歳の方です。
「うち、九人のうち二人います。でも、その二人は今シフトを一番埋めてる人です」
その方は、「六人でも、たぶんきついです」と言いました。
理事長は、少し黙って、「分かりました」と言いました。
六人で決まりました。
決まったあと、私は少し安心しました。安心して、それから、自分が安心していることが気になりました。
六人に抑えたのは、受け入れる方のためでもありますが、私の資料が破綻しないためでもありました。
生活 ―― 三十九歳
年収は九百八十万円です。
前の職場の最後の年が、四百二十万円でした。二倍以上になっています。
家賃は十三万五千円。一人で、二DKに住んでいます。
この案件の私の残業時間は、四月が五十八時間、五月が六十六時間、六月が七十二時間、七月が六十九時間でした。
訪問に同行させてもらった日が、六月に四日あります。車の助手席に乗って、一日に八軒回りました。
四軒目くらいで、腰が固まりました。乗り降りの回数です。ヘルパーの方は、それを一日に十軒、毎日やっています。
その方の時給は、千四百八十円でした。移動の時間は、一部しかつきません。
私のその日の単価は、その方の日給より高いです。計算したくなかったので、計算しませんでした。
もう一つ、変な癖がつきました。
日本語をゆっくり話すようになったのです。
この案件で、簡単な日本語の言い換えをずっと考えていたせいだと思います。むずかしい言葉を、短く言い直す練習をしていました。
七月の社内の会議で、先輩に「服部さん、今日なんかゆっくりだね」と言われました。
そのとき初めて気づきました。
最終報告 ―― 八月
八月二十六日に、最終報告をしました。
成果物は、受け入れの要領、指導担当の手引き、日本語の学習計画、寮と生活の手引き、三年の計画と費用でした。
全部で二百四十ページくらいになりました。
理事長は、最後に「服部さん、この中でいちばん大事なのはどれですか」と聞きました。
私は、指導担当の手引きだと答えました。
理事長は、「それ、いちばん薄いですね」と言いました。
二十二ページでした。日本語の学習計画は、六十ページありました。
後記 ―― 二年後
受け入れは、翌年の二月に始まりました。六人です。
一年目は、全員残りました。
二年目に、二人辞めました。
一人は、別の県の施設に移りました。給与が月に二万円高かったそうです。
もう一人は、帰国しました。
この方は、寮の一階の、別の国の方と同じ部屋にいた人でした。
人事の方から聞いた話では、辞める前の面談で、こう言ったそうです。
「部屋で、話せる人がいませんでした」
日本語は、N3に合格していました。記録も書けていたそうです。
私が部屋割りを決めた理由は、資料の八十四ページに二行で書いてあります。日本語を使う時間を作るため、事業所の中で分かれないため。
その二行を、私はいま読み返せます。読み返して、どう直せばよかったのかは、まだ分かりません。
同じ国の人を同じ部屋にすれば、違うことが起きたと思います。何が起きたかは、起きていないので分かりません。
残った四人のうち二人は、三年目に訪問に出ています。
そのうち一人の指導をしているのは、説明会で「お金の話じゃない」と言った、あの五十八歳の方です。
その方が、去年のお正月に、その人を自宅に呼んでお雑煮を出したと聞きました。
私は、その話を聞いて、よかったと思いました。
よかったと思って、それを資料のどこにも書けないことに気づきました。
寮の二階の廊下は、たぶん今も三つの匂いがします。入っている人は、入れ替わっています。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。