五年の事業計画に、勝つかどうかは書けなかった
制御できない変数を含む計画を、どう書くか――瀬能が、アリーナのコンコースで考え続けた七ヶ月の記録。
三月八日の日曜、十五時四十分。私はアリーナのコンコースに立っていた。
試合は残り十八分で、点差は九点だった。負けていた。
瀬能です。四十一歳。中途で入って二年目です。前は、地方のテレビ局の事業部にいた。
アサイン ―― 前年の九月
クライアントは、国内のプロリーグに所属するクラブだった。屋内競技で、ホームは県庁所在地の市にある。
運営会社の社員は二十六人。選手とコーチを入れても、五十人に満たない。
年商は六億四千万円。三期連続で赤字だった。
リーグには、財務に関する基準がある。債務超過が続くと、上のカテゴリーに残れない。
その基準に、二年後に触れる見込みが出ていた。
依頼は、五年の事業計画の再策定だった。期間は七ヶ月。パートナーの真木さんと、私と、四年目の速水さんの三人。
私がこの案件に付いたのは、前職で興行に関わっていたからだ。テレビ局の事業部で、イベントの主催をやっていた。
会場の設営も、チケットの売り方も、スポンサーの取り方も、だいたい知っていた。
知っていたことが、途中で邪魔にもなった。
数字の構造
最初に、売上の内訳を見た。
六億四千万円のうち、スポンサー収入が三億一千万円。入場料収入が一億四千万円。物販が七千万円。リーグからの分配金が六千万円。その他が六千万円。
費用のほうは、人件費が三億三千万円。そのうち、選手とコーチが二億四千万円。
会場の使用料が年間で八千万円。試合は、ホームで年三十試合ある。
問題は、入場者数だった。
前年の平均が、二千百四十人。アリーナの収容は四千二百席なので、稼働は五割。
そして、試合ごとのばらつきが大きかった。
いちばん多い日が四千百人。いちばん少ない日が八百七十人。
相関を取った
十一月に、速水さんに、過去三シーズンの試合ごとのデータを整理してもらった。
日付、曜日、相手、その時点の順位、天気、入場者数、チケットの平均単価。
勝率と入場者数の相関を取った。
〇・三一だった。
思っていたより、低かった。
私は、強いほど客が入ると思っていた。実際には、そこまで単純ではなかった。
相関がもっと高かったのは、曜日だった。土曜の夜が、平均で二千八百人。平日の夜が、千四百人。
それと、もう一つ。
シーズンの最初の三試合が、平均三千二百人だった。順位がまだ付いていない時期だ。
つまり、人は「強いから来る」のではなく、「これから始まるから来る」面がある。
この発見は、面白かった。面白かったが、計画には使いにくかった。
日程を決めるのはリーグで、クラブではない。
スポンサーを回る
十二月から一月にかけて、スポンサー企業を回った。全部で二十二社。
うち十四社が、その市か、隣の市の会社だった。建設、自動車販売、地元の食品、病院、司法書士事務所。
一社目で、私は自分の思い込みに気づいた。
その会社の社長は、六十八歳の方だった。年間四百万円のスポンサー料を、七年続けている。
私は「広告の効果をどう見ていますか」と聞いた。
社長は、少し困った顔をして、こう言った。
「効果、考えたことないな」
「うちの孫が見に行くから」
その言い方に、嘘はなかった。
二十二社のうち、広告効果を定量的に見ているのは、四社だけだった。全国展開の会社が三社と、通信販売の会社が一社。
残りの十八社は、地元の会社で、社長個人の判断でスポンサーになっていた。
これは、強みであり、弱みだった。
景気が悪くなっても、すぐには降りない。ただ、社長が代わると、一度に降りる。
実際、前年に二社が降りていた。どちらも、社長交代の年だった。
事務局の二十六人
運営会社の社員は、二十六人だった。
内訳を見て、少し驚いた。営業が六人、運営が五人、広報が二人、経理と総務で三人。あとは、スクールとアカデミーの担当が十人。
試合の日は、二十六人のほぼ全員が会場に出る。
私が最初に会った事務局長は、三十九歳の方だった。元選手ではなく、この地域の出身で、五年前に東京の会社から戻ってきた人だ。
その方に、平日の業務の流れを聞いた。
「平日は、営業と、スクールと、あとは雑務です」
雑務の中身を聞いたら、チケットの発券トラブルの対応、備品の発注、ボランティアのシフト調整、地元の小学校への訪問の日程調整、と出てきた。
一人が、五つくらいの役割を持っている。
私は、その時点で、四つ目の提案(アリーナの利用を増やす)の実行可能性を疑うべきだった。
疑わなかった。二十六人でやれる想定で、資料を書いた。
書いてから、三月に事務局長に見せた。
事務局長は、「これ、誰がやるんですか」と聞いた。
私は、「新規で二人採用する前提です」と答えた。
「二人で足りますか」
足りない、と私は思った。思ったが、人件費の上限を提案している資料に、人を増やす話をたくさん書くわけにはいかなかった。
結局、二人のまま出した。
あとから考えると、これは私の中でいちばん納得していない部分だ。選手の人件費を抑えて、事務局の人を増やす。その組み替えを、もっとはっきり書くべきだった。
書かなかったのは、選手の話と事務局の話を同じページに並べたときの、会議室の反応が怖かったからだ。
私が甘かったところ
二月の社内レビューで、真木さんに詰められた。
私が作った五年計画は、入場者数が年に五パーセントずつ増える前提だった。
真木さんは、「なんで五パーセント?」と聞いた。
私は、他のクラブの伸び率と、人口動態と、来場のリピート率から説明した。
真木さんは、最後まで聞いて、こう言った。
「瀬能さん、それ、うまくいったときの数字だよね」
「勝てなかった三年の絵は?」
私は、それを作っていなかった。
作っていなかった理由を、あとで考えた。
私は、このクラブに勝ってほしかった。前職で見ていた景色も、そうだった。イベントは、成功する前提で組む。
でも、これは事業計画だ。事業計画は、うまくいかない場合に何が起きるかを書くための書類でもある。
三月に、三つのシナリオを作り直した。
上位で終わる年、中位の年、下位の年。それぞれで、入場料収入とスポンサーの更新率がどうなるか。
下位のシナリオでは、五年目に債務超過になった。
その一枚が、この案件でいちばん重要な一枚になった。
三月八日
冒頭のコンコースだ。
私は、その日、来場者の動線を見にきていた。
コンコースは狭い。売店は三つで、ハーフタイムに行列ができる。フライドポテトの店に、二十人以上並んでいた。
物販のブースは、コンコースの奥にあった。人が少ない。
グッズを買うのは、試合の前か、勝った日の後だ。負けている試合の途中に、人は買わない。
私は、ポテトの匂いのする通路で、四十分立っていた。
前職で、私は何度も同じ場所に立っていた。イベントの日に、客の流れを見る。
違ったのは、この日は、負けている試合だったことだ。
残り八分で、点差が十五点に開いた。
コンコースに出てくる人が増えた。試合を見ずに、帰る準備をする人たち。
その中に、小学生くらいの子と、父親らしき人がいた。
子どもが「まだ終わってないよ」と言っていた。
父親は「明日も学校だろ」と言っていた。
私は、その会話を、いまでも覚えている。
最終報告 ―― 四月二十一日
四月二十一日に、最終報告をした。
出席は、代表取締役、取締役が三人、事務局長、それと、株主である地元企業の方が二人。
提案は、四つだった。
一つ目。チケットの席種を、五種類から九種類に増やす。いちばん高い席を、いまの一万二千円から二万五千円に上げる。かわりに、いちばん安い席を二千円から千五百円に下げる。
二つ目。スポンサー契約を、単年から三年に切り替える。金額を一割下げて、期間を延ばす。
三つ目。人件費の総額に、上限を置く。売上の四十五パーセントを超えない。
四つ目。試合日以外のアリーナの利用を増やす。地域のイベントと、スクール事業。
三つ目で、会議室の空気が変わった。
代表は、五十六歳の方だった。元選手ではなく、地元の企業から来た方だ。
「瀬能さん、それ、勝てなくなりますよ」
私は、「その可能性があります」と答えた。
そのあとに、下位シナリオの一枚を出した。
いま人件費を上げ続けると、五年目に債務超過になる。債務超過になると、上のカテゴリーに残れない。
残れなければ、スポンサー収入が落ちる。落ちれば、もっと人件費を下げることになる。
「先に下げるか、あとで下げるかです」と、私は言った。
言ってから、自分の声が硬かったことに気づいた。
代表は、しばらく黙っていた。
それから、「分かりました」とだけ言った。
好きだったこと
この案件で、私が最後まで扱いかねたことを書いておく。
私は、この競技が好きだ。子どものころ、やっていた。
案件が決まったとき、私は自分の反応の速さに、あとから気づいた。断る理由を一つも探していなかった。
その「好き」を、七ヶ月、どこに置けばいいのか分からなかった。
好きだから分かることも、あった。コンコースの匂いとか、負けている試合の空気とか。
好きだから見えなくなることも、あった。五パーセントの成長率がそうだ。
真木さんに一度、「瀬能さん、このクラブ好きでしょ」と言われた。
好きです、と答えた。
真木さんは、「じゃあ、いちばんきついことは僕が言うから」と言った。
実際、人件費の上限の話は、最初に真木さんが持ち出した。私は、資料を作っただけだ。
そのことに、助けられた。助けられたことを、少し情けなくも思った。
生活 ―― 四十一歳
年収は九百四十万円。前職より二百二十万円上がった。
家族は、夫と、中学生の子が一人。家は持ち家で、住宅ローンがあと十九年ある。
この案件は、月に六日から八日、現地に行った。新幹線と在来線で、片道二時間半。
試合を見にいったのは、七ヶ月で九回。全部、仕事として行った。
一度だけ、家族を連れていこうかと思った。やめた。
やめた理由は、うまく説明できない。仕事の場所に家族を入れたくなかったのだと思う。
四十一歳で転職して、二年目だ。同期はいない。同じ年の人は、だいたい管理職をやっている。
そのことを、以前は気にしていた。この案件のあいだは、あまり気にしなかった。
忙しかったからだと思う。
三月に、膝を痛めた。アリーナの階段を、一日に何度も上り下りしたせいだ。
整形外科で、「昔、何かスポーツを?」と聞かれた。
やっていました、と答えた。
四月に、子どもに「お母さん、なんの仕事してるの」と聞かれた。学校の課題だったらしい。
私は、会社の売上を増やしたり、無駄を減らしたりする仕事、と説明した。
子どもは「ふうん」と言って、それから「試合見に行ってるんでしょ」と言った。
夫が話したらしかった。
私は「仕事で行ってる」と答えた。
子どもは、「いいなあ」と言った。
いいなあ、と言われて、私は少しだけ返事に詰まった。
仕事で見る試合は、たぶん、この子が思っている試合とは違う。私はコンコースにいて、ポテトの行列を数えている。
ただ、違うと言い切るのも、正確ではなかった。
三月八日の残り八分、点差が開いていく画面を、私は通路のモニターで見ていた。
見ながら、少しだけ、悔しかった。
後記 ―― 翌シーズン
席種の変更は、翌シーズンから入った。
いちばん高い二万五千円の席は、三十席作って、年間で完売した。
いちばん安い千五百円の席は、平日の試合で埋まらなかった。土曜は埋まった。
入場者数の平均は、二千百四十人から二千三百十人になった。九七パーセントの席が埋まった試合が、三回あった。
スポンサーは、二十二社のうち十七社が三年契約に切り替えた。二社が降りた。三社が単年のままだった。
順位は、下がった。前のシーズンより二つ下で終わった。
人件費の上限が効いたのだと、私は思っている。思っているが、確かめようがない。選手の移籍は、金額だけで決まるわけではない。
代表から、シーズンが終わったあとにメールが来た。
「計画は守っています」と書いてあった。
そのあとに、一行あった。
「勝ちたいですけどね」
私は、その一行に返信を書けなかった。
書けないまま、下書きに三日置いて、結局、短い挨拶だけを送った。
あの日のコンコースにいた子は、いま中学生くらいになっているはずだ。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。