「確認します」と言われて、二週間待った
行ったことのない工場の承認フローを、画面だけで八ヶ月書き直した――矢部が、時差二時間の相手と過ごした案件の記録。
三月十日、二十二時二分。日本時間だ。向こうは二十時二分だった。
画面の中に六人いて、そのうち三人はカメラを切っていた。
矢部です。二十五歳。入社して二年目になる。
アサイン ―― 二月の面談
アサインが決まったのは、二月二十六日だった。
パートナーの黒岩さんとの、十五分の面談だった。
「矢部くん、英語できるよね」と聞かれた。
僕は「読み書きはなんとか」と答えた。
黒岩さんは「じゃあ大丈夫」と言った。
大丈夫ではなかった。僕の英語は、入社のときに出した点数が七百八十点で、それ以来ほとんど使っていない。留学もしていない。
あとで分かったことだが、この案件に人を集めるとき、社内で手が挙がらなかったらしい。
理由は、単純だった。深夜の会議が多い案件は、人気がない。
前任のコンサルタントが一人いたのだが、その人は一月に別の案件に移った。引き継ぎは、資料のフォルダのリンクが一通、メールで来ただけだった。
会社 ―― 業務用空調
クライアントは、業務用の空調機器を作っている会社だった。
創業五十七年、売上は六百三十億円、従業員は千九百人。国内に工場が二つ、海外に製造子会社が一つある。
海外子会社は、東南アジアにある。従業員は二百四十人。部品を作って、日本と近隣国に出している。
設立は十四年前。日本からの出向者が二人いる。
案件の発端は、本社の内部監査だった。
前の年の秋に、内部監査室が現地に入って、指摘を十四件出していた。
そのうち三件が、購買に関するものだった。
具体的には、相見積もりが取られていない発注が多いこと、特定の業者への発注が集中していること、そして発注の承認の記録が一部残っていないこと。
不正があった、という話ではない。監査報告にも、そうは書かれていない。
ただ、「あったとしても分からない状態である」ということが書かれていた。
依頼は、管理体制の立て直しだった。規程を整備して、承認のフローを直して、モニタリングの仕組みを作る。期間は八ヶ月。
最初の一ヶ月 ―― 資料が来ない
三月は、資料の依頼から始まった。
僕は、依頼リストを作った。購買の規程、権限表、過去二年の発注の一覧、支払いの記録、取引先のマスタ、組織図、職務分掌の表。
十九項目あった。英語で書いて、送った。
期限は、二週間後にした。
二週間後、届いたのは四項目だった。
僕は催促のメールを書いた。丁寧に書いた。書き方は、ネットで例文を調べた。
返事は、その日のうちに来た。
「We will confirm and get back to you.」
確認して、折り返します。
それから、二週間、何も来なかった。
「確認します」の意味
四月の会議で、僕は聞いた。日本時間の二十二時、現地の二十時。
「三月にお願いした資料のうち、十五項目がまだ届いていません」
画面の向こうで、現地の管理部長が答えた。この方は現地の方で、四十代前半、英語は僕よりずっと流暢だった。
「Yes, we are confirming.」
僕は「いつごろになりますか」と聞いた。
少し間があって、「as soon as possible」と言われた。
会議のあと、僕はマネージャーの真木さんに聞いた。
真木さんは、この案件に週二日だけ入っている人だ。三十三歳。
真木さんは「確認します、は、やりますって意味じゃないから」と言った。
「たぶん、誰が出すか決まってないんだよ。決まってないものは、進まない」
僕は、依頼の出し方を変えた。
項目ごとに、担当者の名前と、期日と、出せない場合はその理由を書く欄を作った。表にして送った。
次の二週間で、十一項目が届いた。
届いたものを見て、また止まった。
二十二時の会議
会議は、日本時間の二十二時からだった。
なぜ二十二時なのかを、僕は三ヶ月目に聞いた。
時差は二時間しかない。向こうの二十時だ。本来なら、日本の十八時、現地の十六時にやればいい。
理由は、本社の担当役員の予定だった。その方は日中に会議が入っているので、夜しか空かない。
役員が出るのは、月に一回だけだった。残りの回も、同じ時間で固定されていた。
会議室は、本社の六階の小さい部屋を借りていた。
二十二時の本社は静かで、フロアの照明が半分落ちている。自動で消える設定なので、途中で暗くなる。立ち上がって手を振ると点く。
会議中に一度、手を振るために立ち上がって、画面の向こうに変な姿勢が映った。誰も何も言わなかった。
音は、よく途切れた。相手の回線の問題だと思っていたが、あとで本社側の会議室の機材が古いことが分かった。
聞き取れなかったとき、僕は「Sorry, could you repeat?」と言う。三回続けて言うのが、きつい。
四回目は、聞き取れたふりをしたことがある。
そのときの内容は、あとで議事録を作るときに分からなくなって、真木さんに「ここ何の話でしたっけ」と聞いた。真木さんも聞いていなかった。
議事録は、英語で書いて、翌朝に送る。日本語で下書きして、翻訳して、自分で直す。一本に一時間半かかっていた。
三ヶ月目から、四十分で書けるようになった。上達したというより、諦める場所が分かったのだと思う。
二つの言語
購買の記録は、二種類あった。
システムに入っている記録と、紙の記録だ。
システムの記録は英語で入力されている。紙の記録は、現地語だった。
そして、この二つが一致していなかった。
一致していない、というのは、金額が違うということではない。日付が違う。
紙の承認書に押されている日付が、システムの発注日より後になっているものが、抽出した百件のうち三十七件あった。
僕はこれを見て、「事後承認が常態化している」と書いた。
四月三十日の週次報告に、そう書いて出した。
その報告は、本社の担当役員と、現地の出向者二人にも共有された。
翌日、出向者の一人からメールが来た。
出向者
出向者は二人いる。
一人は五十五歳の方で、工場長。設立の三年後から現地にいて、通算で十一年になる。
もう一人は四十八歳で、管理担当。五年目だった。
メールを送ってきたのは、工場長の方だった。
日本語で、七行だった。
要旨は、こうだった。事後承認と書かれているが、こちらでは紙の承認書は記録の整理のために後でまとめて作っている。承認そのものは事前に口頭と電子で行われている。現場を見ずに常態化と書かれるのは心外である。
僕は、その日、返信を三回書き直した。
一回目は、謝りすぎていた。二回目は、反論になっていた。
三回目に送ったのは、「承認の実態について、あらためて確認させてください」という短い文だった。
真木さんに見せたら、「これでいい」と言われた。
それから、真木さんはこう付け足した。
「でも、矢部くんの指摘は間違ってない」
「記録が後から作られてるってことは、記録では検証できないってことだから」
正しい指摘が、届かない形で出された。それがこのときに起きたことだった。
中間報告 ―― 七月
七月十七日に、中間報告をした。日本時間の十六時。この日は、向こうに合わせてくれた。
僕が出したのは、規程の改定の方向と、承認フローの案と、モニタリングの項目だった。
現地の管理部長は、フローの図を見て、「これは、承認が四段階になるということですか」と聞いた。
僕は「はい」と答えた。
その方は「いまは二段階です」と言った。
「二段階で回っているものを四段階にすると、遅くなります。部品が止まります」
もっともだった。
僕は、金額で閾値を置く案に直した。一定額以下は二段階のまま、それを超えるものだけ四段階にする。
閾値をいくらにするか、という話になった。
本社の担当役員は「百万円」と言った。現地の管理部長は「それだと、ほとんどの発注が四段階になります」と言った。
現地の発注の金額分布を出したのは、その翌週だった。
中央値は、日本円で十一万円だった。百万円を超える発注は、件数で四パーセント、金額で六十二パーセント。
この一枚を出したあと、議論は十分で終わった。閾値は八十万円になった。
数字を先に出していれば、七月の会議はもっと短かった。出していなかったのは、僕がその分布を作っていなかったからだ。
十一月 ―― 一度だけ
現地に行けたのは、十一月だった。
三月の時点で、僕は出張を申請している。承認されなかった。理由は、費用と、オンラインで代替可能という判断だった。
八月にもう一度申請した。これも通らなかった。
十月に、本社の担当役員が「一回行かせたほうがいい」と言って、ようやく決まった。
十一月十二日から、二泊四日。日曜の夜に出て、水曜の朝に戻る日程だった。
工場は、街から車で四十分の工業団地にあった。
着いた日、外は三十一度だった。日本は十二度だった。僕はコートを畳んで鞄に入れた。
工場の中は、思っていたよりきれいだった。床に線が引いてあって、工具が影の形に置かれている。
購買の部屋に行った。四人が働いていた。
そこで、承認の実物を見た。
紙の承認書は、上から三段になっていて、それぞれに印が押される。
聞いてみると、いちばん上の段は、発注の前に押す。二段目は、モノが届いたときに押す。三段目は、支払いのときに押す。
そして、日付を書く欄は、一つしかなかった。
一つしかない欄に、最後の人が、自分が押した日を書いていた。
つまり、紙の日付は「支払いの日」で、発注日ではなかった。
システムの発注日より後になっているのは、当たり前だった。
僕が四月に「事後承認」と書いたものは、様式の問題だった。
気づいたこと
そのことに気づいたとき、僕は、恥ずかしいとは思わなかった。
思ったのは、「これ、日本にいて分かったか?」ということだった。
たぶん、分かった。誰かに「この紙の日付は何の日付ですか」と聞けば、それで済んだ。
八ヶ月のうち七ヶ月、僕はその質問をしていない。
質問をしなかった理由は、その紙の写真を、四月の時点では見ていなかったからだ。
写真を見ていなかったのは、依頼リストに「承認書の様式」という項目がなかったからだ。
僕の十九項目には、書類の中身はあっても、書類そのものがなかった。
工場長の方とは、二日目の夜に、街の食堂で食事をした。
その方は、ビールを二杯飲んで、こう言った。
「矢部さん、あのメール、きつかったでしょう」
「きつかったです」と答えた。
「悪かったね。でも、こっちも十一年やってるから」
それから、「日本から来る人は、だいたい三日で帰る」と言われた。
僕は四日目に帰った。
生活 ―― 二十五歳
年収は五百四十万円。家は、会社から三十五分の1K、家賃は八万一千円。
この案件のあいだ、僕の生活は、二十二時の会議を中心に組まれていた。
週に二回か三回、その時間に会議がある。会議のあとに議事録を書くので、寝るのは一時を過ぎる。
朝は、十時に出社していいことになっていた。だから、生活としては成立していた。
成立していたが、夕食の時間がなくなった。会議の前に食べると眠くなるので、終わってから食べる。二十三時半に、コンビニのパスタを食べる日が続いた。
四ヶ月で、体重が六キロ増えた。
十二月の健康診断で、中性脂肪の数値に印がついた。二十五歳でこれは早い、と保健師の方に言われた。
現地に行ったとき、街の屋台で麺を食べた。五十円くらいだった。おいしかった。
その話を、日本に帰って同期にしたら、「いいなあ、海外案件」と言われた。
僕は「二十二時から会議だけどね」と言った。同期は「でも海外じゃん」と言った。
それ以上、説明しなかった。
最終報告と、そのあと
最終報告は、翌年の一月だった。
成果物は、購買規程の改定案、承認フローの図、様式の見直し、権限表、それから月次のモニタリングの仕組み。
承認書の様式は、日付欄を三つにした。それだけで、四月に僕が見つけた三十七件の「不一致」は、次の年から発生しなくなる。
いちばん効いた提案が、欄を二つ増やすことだった、というのは、報告書には書かなかった。
本社の担当役員は、「思ったより地味な結論ですね」と言った。
それから、「でも、こういうことなんでしょうね」と付け足した。
後記 ―― 翌年の九月
翌年の九月、その会社の別の案件の話が社内で出た。僕は入っていない。
聞いたところでは、管理担当の出向者が交代したそうだ。五年いた方が日本に戻って、別の方が行った。
新しい方は、僕が作った規程を読んでいると思う。
読んでいる人と、僕は会っていない。
工場長の方は、まだ現地にいるらしい。あの人は、あと何年いるのだろう。
僕が八ヶ月かけて書いた書類のうち、現地で毎日使われるのは、たぶん、あの三段の紙だけだ。
日付の欄が三つある紙が、いまも押されている。押している人の顔を、僕は四人しか知らない。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。