六時十二分の便には、三人乗っていた
前の会社で覚えたことが、最初の三週間をまるごと持っていった――牧原が、始発のバスに乗りながら書き直した案件の記録。
四時五十分に目覚ましをかけた。三月三日の火曜日。外はまだ暗くて、部屋の温度計は十一度だった。
六時十二分の便に乗るためだった。
牧原です。二十八歳。中途で入って二年目になる。前は、鉄道会社の運輸部にいた。
アサイン ―― 二月十七日
電話が来たのは、二月十七日の火曜、十八時半だった。
マネージャーの筒井さんから、「牧原さん、バスってどう?」と聞かれた。
私は「鉄道なら少し分かります」と答えた。
筒井さんは「じゃあ近いね」と言った。
この会話が、この案件のすべてを決めたと思う。近くなかった。
案件は、県の東部の路線バス事業者と、沿線の三市町が一緒に進める、地域公共交通計画の見直しだった。
期間は七ヶ月。三月から九月。メンバーは、筒井さんと私と、入社一年目の郡山さんの三人。
私が指名された理由は、明らかだった。社内で公共交通に触ったことがあるのが、私だけだったからだ。
嬉しかった。正直に書くと、電話を切ったあと、少し嬉しかった。
前職の五年半が、ようやく使える、と思った。
キックオフ ―― 三つの市町
三月五日にキックオフがあった。会場は、いちばん人口の多い市の庁舎の会議室。
出席は、三市町の企画と交通の担当が七人、事業者から三人、それと私たち三人。
三市町といっても、事情はまったく違った。
中心の市は、人口が九万八千人。駅があり、バスの本数もある。この市の担当者は、財政の話をした。負担金が毎年増えていて、議会で指摘を受けていると。
隣の町は、人口が一万六千人。高齢化率が四十二パーセント。この町の担当者は、路線を減らさないでほしい、と最初に言った。
もう一つの村は、人口が四千二百人。担当者は一人で、交通だけでなく、観光と移住の担当も兼ねていた。この方は、会議中にほとんど発言しなかった。
同じ計画を作るのに、三者の第一声が、財政と維持と沈黙だった。
私はそのとき、これは調整の問題だと思った。
調整の問題ではなかった。負担金の配分の式が、十一年前に決まったまま、人口の変化を反映していなかった。式を見たのは、五月に入ってからだった。
知っているつもり ―― 最初の三週間
三月の最初の三週間、私は需要の分析をやっていた。
沿線の人口、高齢化率、通学者数、他の移動手段の状況。それと、事業者から出してもらった路線別の輸送人員と収支。
三十五路線あった。うち、単独で黒字なのは四路線。残りは補助金と内部補助で回っている。
私は、路線ごとの収支と利用者数を並べて、優先順位をつけた表を作った。
前職でも同じことをやっていた。輸送密度で並べて、下から議論する。
三月二十四日に、事業者の営業所に持っていった。
営業所長は、五十九歳の方だった。新出さんという。四十年近くこの会社にいて、そのうち十七年は運転士をしていた。
私の資料を、上から下まで見て、新出さんはこう言った。
「牧原さん、これ、うちが本数を決められるって前提ですよね」
私は「はい」と答えた。
新出さんは「決められないんですよ」と言った。
「先に、人の話をしてくれませんか」
決めているのは、需要ではなかった
その日、営業所の事務室で二時間、説明を受けた。
この会社の運転士は、百二十七人いる。三年前は百四十四人だった。
採用は毎年出しているが、埋まらない。去年は十五人募集して、採用は六人。うち二人が一年以内に辞めた。
運転士の勤務は、拘束時間と休息期間が法令で細かく決まっている。一日にどれだけ乗れるか、連続でどれだけ運転できるか、次の勤務まで何時間空けるか。
つまり、百二十七人から作れる「乗務の枠」には上限がある。
その上限が、いまのダイヤの本数と、ほぼ一致していた。
需要が多いから本数があるのではない。人が足りるぶんしか本数が作れていない。
だから、需要の少ない路線を減らしても、浮いた枠は他の路線に回るだけで、コストはあまり減らない。
私が三週間かけて作った優先順位の表は、この構造を一行も含んでいなかった。
鉄道は、一人の運転士が乗せる人数が桁で違う。だから、私が前職で見ていた景色では、需要のほうが先に制約になっていた。
用語は通じた。ダイヤ、運用、行路、折り返し。全部知っている言葉だった。
知っている言葉だったせいで、違う構造だと気づくのが三週間遅れた。
捨てた三週間
営業所から帰った日の夜、筒井さんに電話した。二十一時過ぎだった。
私は、需要から入ったのが間違いだった、と報告した。
筒井さんは「うん」と言ったきり、しばらく黙っていた。それから、こう聞いた。
「牧原さん、前の会社で、バスの人と仕事したことある?」
ない、と答えた。同じ会社にバス部門はあったが、私は関わっていない。
「じゃあ、知らなくて当然だよ」
そのあとに、一つだけ言われた。
「ただ、今日まで誰も止めなかったのは、僕の責任でもあるから。次からは、二日目に持ってきて」
三週間ぶんの作業は、結局、使わなかった。使わなかったが、収支の数字はあとで補助金の議論に使った。全部が無駄だったわけではない。
そう自分に言い聞かせたことを、覚えている。言い聞かせる必要があったということは、無駄だったと思っていたということだ。
乗る ―― 十四日間
四月から、乗降調査をやった。
自動の計測装置が入っているのは、三十五路線のうち十一路線だけだった。残りは、人が乗って数える。
郡山さんと二人で、十四日間、朝と夕方に乗った。
三月三日の朝、私が最初に乗ったのが、六時十二分の便だった。市街地の外れの団地から、駅に向かう路線の始発。
乗っていたのは、三人だった。
高校生が二人と、六十代くらいの男性が一人。高校生は二人とも寝ていた。男性は、途中の病院前で降りた。
車内は暖房が効いていて、窓が曇っていた。カーブで体が持っていかれる。手すりを握っていないと、メモが書けない。
三日目に、少し酔った。バスで酔ったのは十年ぶりだった。
私はこの十四日間で、延べ二百十二便に乗った。数えた人数は、全部で四千八百人ほどだった。
数え方でも一度もめた。郡山さんは、乗った人と降りた人を別々に数えていた。私は、区間ごとの車内人数で取っていた。四日目に突き合わせたら、合わなかった。
原因は、二人の数え方が違うことではなく、途中の停留所で乗り降りが同時に起きる便があることだった。片方が乗車を数えているあいだに、もう片方の扉から降りている。
五日目から、二人とも前扉の横に立った。立っていると、運転士の方に「邪魔になるから」と言われた便もあった。当然だった。
言われたその便は、数字を諦めた。諦めた便が、十四日間で九便ある。報告書には、その九便を除いて集計した、と脚注に書いた。
数字としては、事業者が持っているデータと大きくは違わなかった。
違ったのは、誰が乗っているかだった。
昼間の便は、七割が六十五歳以上だった。行き先は、病院とスーパーと駅。
そのうちの何人かは、毎日同じ便に乗っていた。四日目には、こちらが顔を覚えた。
協議会 ―― 席が二十二ある
このあたりで、この案件のもう一つの面倒が出てきた。
発注者は三市町だった。予算を出しているのは自治体だ。
だが、実際に路線を運行しているのは事業者で、こちらは発注者ではない。
そして、計画を決めるのは、法定の協議会だった。ここには、自治体、事業者、利用者代表、学識の先生、道路管理者、運輸行政の担当と、二十二の席がある。
私の成果物は、誰の合意を取れば通るのか。
筒井さんに聞いたら、「契約上は市町。でも実務上は事業者が首を縦に振らないと動かない」と言われた。
それは、板挟みという意味ですか、と聞いた。
筒井さんは「そう。最初からそういう契約」と言った。
五月の協議会で、私は中間の整理を報告した。二十二人のうち、発言したのは六人だった。
そのうち二人が、「減便ありきではないか」という趣旨の質問をした。
私は「供給の制約から入っています」と説明した。説明しながら、三月に自分が作った表のことを思い出していた。あの表は、まさに減便ありきだった。
出さなくてよかった、と思った。思ってから、それは運がよかっただけだと気づいた。
住民説明会 ―― 六月
六月に、住民説明会を四回やった。公民館と、市の会議室。
来たのは、合計で百三十人ほど。ほとんどが高齢の方だった。
一回目で、七十代くらいの女性にこう言われた。
「あんたら、乗ったことあるんかね」
私は「十四日間、乗りました」と答えた。
その方は「どこの便に」と聞いた。
私は路線名と時刻を三つ答えた。
すると、その方は少し黙って、「じゃあ、分かっとるね」と言った。
分かってはいなかった。ただ、乗ったかどうかだけが、そこでは資格の話になっていた。
三回目の会場では、別の方に「便を減らすなら、タクシーの券を出してくれ」と言われた。
その案は、実は検討していた。デマンド型の乗合交通と、タクシーの利用助成。ただ、どちらも運転手の確保が要る。バスの運転士が足りない地域で、タクシーの運転手が余っているということはない。
私は、そう説明した。
その方は「じゃあ、どうしようもないってことか」と言った。
答えられなかった。
最終報告 ―― 九月十八日
九月十八日に、協議会で最終報告をした。
案は、こうだった。
三十五路線のうち、七路線を幹線として維持し、本数を確保する。九路線を、曜日と時間帯を絞った運行に変える。四路線を、予約制の乗合に転換する。残りは現行のまま、翌年度に再評価。
そして、運転士の確保策を計画の第一章に置いた。
計画書の構成としては、変わったものになったと思う。ふつう、交通の計画は「どこにどんな交通を配置するか」から始まる。この計画は「何人乗務員がいるか」から始まる。
新出さんは、最終報告のあとで、私のところに来てこう言った。
「一章目、あれでいいと思いますよ」
「うちの若い者にも、そう言って聞かせてますから」
そのあとに、「まあ、募集して来るかどうかは別ですけどね」と付け足された。
生活 ―― 二十八歳
年収は七百四十万円。前職より百八十万円上がった。
現地には、週に三日行った。宿泊は駅前のホテルで、一泊六千八百円。朝六時前に出る日は、前の晩にコンビニでおにぎりを二つ買っておいた。
四時五十分起きを十四日続けたとき、三日目から、夜の二十一時に眠くなるようになった。
前の会社にいたときも、始発の乗務員の交代を見にいくために、同じ時間に起きていた。あのときは、当直室で仮眠が取れた。いまは取れない。
五月に、前職の同期から連絡が来た。結婚の報告だった。
返信に「いまバスの案件をやってる」と書いたら、「それ、うちの管轄じゃん」と返ってきた。管轄ではない。県が違う。
それでも、少し嬉しかった。自分の前職と、いまの仕事がつながって見える瞬間は、この二年で数えるほどしかなかった。
七月に、ひどい肩こりで整体に行った。六千円だった。施術の人に「デスクワークですか」と聞かれて、「バスに乗ってました」と答えたら、変な顔をされた。
後記 ―― 翌年の四月
翌年の四月、計画が動き出した。
九路線の運行は、曜日を絞った形に変わった。四路線の予約制への転換は、二路線だけ実施された。残り二つは、住民の合意に至らず、翌年度送りになった。
六時十二分の便は、残った。
残ったが、その路線は、朝の便が三本から二本になった。六時十二分と、七時四十分。八時過ぎの便がなくなった。
私が乗った日、六時十二分に乗っていた高校生二人は、三年生だった。翌年の三月には卒業している。
つまり、あの三人のうち二人は、この計画が動く前にいなくなっている。
そのことに気づいたのは、計画書を納品してから半年後だった。
運転士は、その年、九人採用されて、四人辞めたと聞いた。
差し引き五人。百二十七人が百三十二人になったわけではない。定年でも抜けるからだ。
新出さんが定年になるのは、翌年の三月だと聞いている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。