「これ、私が最初に出したやつです」と言われたのは、四十七件目だった
七千四百十二行の表を前に、梅木は「読めば分かる」と思っていた。読めるようになるまでに、二週間かかった――知財の棚卸しに入った三年目の記録。
四月九日、僕が最初に開いたファイルは、七千四百十二行あった。
一行が一件の特許だった。列は三十一あった。出願番号、登録番号、出願日、登録日、発明の名称、発明者、国、年金の納付期限、それから僕が意味を知らない列が十いくつ。
梅木です。二十六歳。入社して三年目になる。
アサイン ―― 知財と言われて
三月の最終週に、マネージャーの土肥さんから連絡が来た。
「知財、興味ある?」
興味の有無を聞かれているわけではないことは、三年目なので分かっていた。
僕は大学で物理をやっていた。修士に進んで、一年で辞めた。辞めた理由は、いまでもうまく説明できない。
そのせいか、社内では「理系の人」という扱いになっている。実際に扱えるのは、表計算と、少しの統計だけだ。
案件は、光学機器メーカーの特許の棚卸しだった。
依頼は、経営企画からだった。知財費用が年間で四億円を超えていて、そのうち維持年金が一億八千万円。これを三割減らしたい、という話だった。
会社 ―― 知財部は三人
会社は、創業八十八年。顕微鏡や測定用のレンズユニットを作っている。売上は千二百億円。従業員は三千四百人。
知財部は、三人だった。
部長の細江さんが五十四歳。あと二人が、四十代と三十代の方だ。
三人で七千四百十二件を管理している。管理というのは、期限を切らさないようにする、という意味だった。
細江さんは、最初の面談で「うちは、出す一方で、やめる会議をやったことがないんです」と言った。
出願の会議はある。年に十二回、発明届が上がってきて、出すかどうかを決める。
だが、捨てる会議はない。だから溜まる。
これは、たぶん、たくさんの会社で同じだと思う。
最初の二週間 ―― 読めない
僕は、表を読めるようになるまでに二週間かかった。
まず、特許の一件が一つの権利ではないことを知らなかった。同じ発明を複数の国に出していると、国ごとに別の権利になる。七千四百十二件のうち、日本が二千九百件、それ以外が四千五百件だった。
「ファミリー」という単位でまとめると、二千六十だった。
次に、年金の仕組みを知らなかった。
特許は、持ち続けるのに毎年お金がかかる。しかも、年数が経つほど金額が上がる。最初の数年は数千円で、十年を超えると一件で数万円になる。
階段になっている、と細江さんは言った。
だから、古い特許ほど、持っているだけで高い。
このことを理解したとき、僕は「じゃあ古いものから切ればいい」と思った。
思って、口に出した。細江さんは、何も言わずに、一件の特許を画面に出した。
登録から十六年経っていた。年金は一件で年に六万円台。
「これ、切りますか」と細江さんは聞いた。
僕は「実施していますか」と聞き返した。
「うちは、していません」
「では」と言いかけた。
細江さんは「他社も、していません」と言った。
「していない」が二種類ある
その意味が分かるまでに、三十分かかった。
自社が実施していない特許には、二種類ある。
一つは、誰も使っていない、ただの死んだ権利。
もう一つは、自社が押さえているせいで、他社が使えない権利。
後者を手放すと、翌年から他社がその方式を使えるようになる。使えるようになったら、自社の製品の値段が下がる。
つまり、手元では何も生んでいないのに、捨てた瞬間に損が出る。
「防衛」という言葉で説明されたが、僕が腑に落ちたのは、細江さんが言ったこの一言だった。
「梅木さん、うちの製品が高く売れてる理由の何割かは、うちが持ってて使ってない紙のせいなんですよ」
僕はメモに「使っていない ≠ 要らない」と書いた。
書いたあとで、自分が一週間かけて作りかけていた「実施していない特許の一覧」を見た。二千七百件あった。
そのまま出していたら、たぶん、僕は会議で死んでいた。
「で、いくら浮くの」
四月の第三週に、土肥さんとの打ち合わせがあった。三十分の枠だった。
僕は、特許の制度について調べたことを、十枚にまとめて持っていった。年金の階段の話、ファミリーの話、分類の話。
土肥さんは、三枚目でこう言った。
「梅木くん、これ、いつまで勉強してるつもり?」
「二週間やって、いま、何件落とすと、いくら浮くって言える?」
言えなかった。
僕は「まだ分類の設計中で」と答えた。
土肥さんは「設計は大事。ただ、金額の目安は初日から置いといて、そのあと精度を上げるの」と言った。
その日のうちに、僕は雑な試算をした。登録から十年以上経っていて、直近五年で引用がない件を全部落とした場合、という乱暴な前提で。
一億一千万円と出た。
この数字は、最終的な答え(五千百万円)の倍以上あった。つまり、外れていた。
外れていたが、この数字があったせいで、そのあとの三ヶ月、議論が「どこまで削れるか」の話として進んだ。
数字が先にあると、会話が変わる。これは、あとになって効いてきたことだった。
四つの箱
分類の軸を作り直した。
最終的に、四つに分けた。
A、自社が実施している。B、他社にライセンスしている、または交渉に使える。C、自社は実施していないが、他社が使うと困る。D、いずれにも当たらない。
Dが、放棄の候補になる。
軸は三日で作った。この三日が、いま思えば、この案件でいちばん重要な三日だった。
問題は、Cの判定だった。
「他社が使うと困る」かどうかは、他社の製品を見ないと分からない。七千四百十二件について、他社の製品と突き合わせるのは、僕たちの人数では無理だった。
そこで、代理の指標を置いた。同じ技術分類に他社の特許が何件あるか、その分類の出願がここ五年で増えているか、審査の過程で他社から引用されたことがあるか。
引用されている特許は、他社が「近い」と思っている証拠になる。
この考え方は、僕が思いついたのではない。細江さんが「引用は見といたほうがいいですよ」と言ったのを、僕が指標にしただけだ。
資料には、僕が作ったように書いた。あとで直そうと思って、直していない。
ラベルを貼る ―― 三週間
五月の連休明けから、ラベル貼りを始めた。
七千四百十二件に、AからDの印をつけていく。
半分は機械的に付けられた。分類と引用の有無で自動的に振れる。
残りの三千二百件ほどは、一件ずつ、発明の名称と請求項の最初の一文を読んで判断した。
一件あたり、速いときで二十秒、迷うと三分。
一日に四百件が限界だった。六時間そればかりやった日は、夕方に目が乾いて、コンタクトを外した。外したら手元の文字が見えなくなり、眼鏡を取りに家へ帰った。
五月二十日ごろ、自分の判定がおかしいことに気づいた。
午前中に見た範囲と、夕方に見た範囲で、Dの比率が違う。夕方のほうが、Dが多い。
疲れると、捨てるほうに寄る。
僕は、前の三日分を抜き取りで見直した。二百件見て、十四件で判定が変わった。
七パーセント。七千四百件に掛けると、五百件ちかくになる。
その日から、一日四時間で切ることにした。終わらなくなったので、土曜に二回出た。
四十七件目
六月に入って、発明者への確認を始めた。
Dに振った中で、金額の大きいもの、つまり年金が高い古いものから、発明者に直接聞くことにした。
対象は百二十件。発明者は、まだ在籍している人が七十四人。
研究所で、一日に六人ずつ会った。一人二十分。
四十七件目の特許を出したとき、相手は五十九歳の主幹研究員の方だった。
僕が画面に出したのは、登録から十九年経った、レンズの保持機構に関する特許だった。年金は年間で七万円台。
その方は、少し前に身を乗り出して、こう言った。
「これ、私が最初に出したやつです」
それから、「よく残ってましたね」と言って、笑った。
僕は「この権利、いま御社では使われていないようなのですが」と言った。
「使ってないですね」
「他社さんが使う可能性は」
「ないと思いますよ。これ、いまの設計だと、そもそもこの構造にしないので」
技術的には、Dだった。話は五分で終わった。
終わったのに、その人はしばらく画面を見ていた。
僕は次の件に進めなかった。次の紙をめくる音を出すのが、なんとなく嫌だった。
結局、二十分の枠のうち、十分くらい、その方の入社当時の話を聞いた。
その日の帰り、僕は判定を変えなかった。Dのままにした。
変えなかったことは、正しかったと思う。正しかったと思う、という言い方を、僕はいまもしている。
同じ日の、六人目
同じ日の六人目は、四十一歳の方だった。
十四件をまとめて見てもらった。全部Dの候補だった。
その方は、一覧を上から下まで三十秒で見て、こう言った。
「全部いいですよ。落としてください」
僕は少し戸惑って、「一件ずつ確認しなくてよろしいですか」と聞いた。
「うち、出願のノルマがあるんです。年に二件」
「二件出すために書いた発明が、この中にいくつあるか、私は覚えてます」
それだけ言って、その方は時計を見た。
僕は「ありがとうございます」と言って、十四件にDの印をつけた。
四十七件目の人と、六人目の人と、どちらもこの会社の研究員だった。同じ制度の中で、一方は最初の一件を覚えていて、一方はノルマの二件を覚えていた。
僕の表には、どちらもDとしか書けなかった。
その晩、僕は「発明者の反応」という列を作るかどうかを十分くらい考えて、作らなかった。作っても、誰も使わないと思ったからだ。
生活 ―― 二十六歳
年収は五百九十万円。家は会社から二十分の1K、家賃は八万八千円。
この案件は常駐ではなく、週に二日だけ客先に行った。残りは自社か自宅だった。
自宅で表計算を開いていると、時間の感覚がなくなる。二十二時に「あと百件」と思って、気づくと一時だった。
六月に、目の奥が痛くなって、眼科に行った。ドライアイと言われて、目薬を出された。四百五十円だった。
その目薬を、僕はいまも使っている。案件は終わっている。
七月の頭に、実家から電話があった。母が「元気にしてるの」と聞いた。「してる」と答えた。
そのあと、なぜか特許の話をした。会社が持っている紙が七千枚あって、そのうち千枚を捨てる仕事をしている、と説明した。
母は「捨てていいものなの」と聞いた。
「たぶん」と答えた。たぶん、としか言えなかった。
同期と月に一度、金曜に飲む。六月の会で、「いま何やってんの」と聞かれた。
「特許を捨てる仕事」と答えた。
同期の一人が「それ、減らした金額が成果なの?」と聞いた。
そうだ、と答えた。答えながら、四十七件目のことを少し思い出した。
中間報告と、そのあと
七月十八日に中間報告をした。
Dが千六百四十件。このうち、放棄した場合の年金削減額が年間で七千三百万円。
経営企画の担当役員は、「思ったより出ますね」と言った。
細江さんは、そのあとで一つだけ注文を付けた。
「Dのうち、発明者が在籍している件は、本人に通知してから落としたい」
事務の手間が増える話だった。役員は少し渋ったが、最後は「まあ、それはそうですね」と言った。
最終的に、放棄の対象は千百件に絞られた。削減額は五千百万円。三割には届かなかった。
九月十日に最終報告をして、僕は次の案件に移った。
後記 ―― 翌年の四月
放棄の手続きは、年金の納付期限ごとに進む。だから、一度に落ちるわけではない。翌年度いっぱいかけて、順番に切れていく。
僕は、その経過を見ていない。
翌年の四月、細江さんから一度だけメールが来た。件名は「ご報告」で、本文は三行だった。
千百件のうち、九百六十件が放棄済み。残りは、事業部からの申し出で維持になった、と書いてあった。
百四十件。誰がどの件を残したのかは、書かれていなかった。
四十七件目が、その百四十件に入っているのかどうかを、僕は返信で聞かなかった。
聞いてもよかったと思う。ただ、聞いてどうするのか、というのが分からなかった。
七千四百十二行のファイルは、いまも僕のパソコンのどこかにある。開くと、僕がつけたAからDの印が、そのまま残っている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。