十七人に聞いて、十七人が同じ答えをした
五度の加工場で、僕は自分の質問が何も引き出していないことに気づいた――相馬が、港町で過ごした二ヶ月半について書いた記録。
二月四日の朝、加工場の室温は五度だった。僕は借りた長靴と白い上衣を着て、ラインの横に立っていた。三時間立っていて、途中から足の指の感覚がなくなった。
相馬です。二十七歳。入社して五年目になる。
アサイン ―― 一月の金曜
電話が来たのは、一月十六日の金曜、二十時過ぎだった。
マネージャーの久保田さんから、「人権、やったことある?」と聞かれた。
ないと答えた。久保田さんは「僕もない」と言った。
案件は、水産加工の会社だった。冷凍の切り身とすり身を作っている。従業員は四百二十人。そのうち九十八人が、外国籍の技能実習生と特定技能の人だった。
依頼の出どころは、その会社ではない。取引先の大手小売が、仕入先に対して人権に関する調査と報告を求めた。会社はそれに応じる必要があり、自前ではできない、という流れだった。
つまり、いちばん強く求めているのは、目の前のクライアントではない。
この構図は、最初の日に分かっていた。分かっていたのに、僕はそれを二ヶ月間、うまく扱えなかった。
会社 ―― 港から四百メートル
会社は、県の東部の港町にあった。創業六十三年。工場は二つ。第一工場が切り身、第二工場がすり身。
社長は三代目で、五十一歳だった。最初の面談で、こう言った。
「うちは、真面目にやってきたつもりです」
「確かめていただいて構いません」
嘘をついている顔ではなかった。少なくとも、僕にはそう見えた。
現場を仕切っているのは、製造部長の柄沢さんという人だった。五十七歳。この会社に三十四年いる。実習生の受け入れも、この人が窓口を続けてきた。
僕が「聞き取りをさせてください」と言ったとき、柄沢さんは「どうぞ」と言った。
そのあとに、一つだけ付け足した。
「ただ、あの子ら、聞かれると困りますよ」
僕はそれを、抵抗の言葉として受け取った。
いま思うと、半分は忠告だった。
最初の二週間 ―― 紙を読む
一月の残りの十日ほどは、紙を読んでいた。
もらったのは、出勤の記録が三年分、賃金台帳が三年分、寮費と光熱費の控除の内訳、受け入れの計画書、それから外部の団体が年に四回入っている巡回の記録だった。
段ボールで二箱あった。半分は紙で、半分はPDFだった。PDFのほうが読みにくかった。スキャンが斜めになっていて、数字が潰れている月がある。
僕は表計算に打ち直した。四百二十人分ではなく、外国籍の九十八人分に絞った。それでも三日かかった。
残業時間の分布を出した。月の平均が三十一時間。多い人で五十四時間。上限には引っかかっていない。
ただ、分布に癖があった。残業が多い人と少ない人が、きれいに分かれている。同じラインで、同じ工程のはずなのに。
僕はこれを見つけたとき、少し嬉しかった。分析で何かを見つけた、という感触があった。
あとで分かるのだが、この分かれ方には、入国の年次が効いていた。三年目の人のほうが残業が多い。稼ぎたい人が多く入り、そうでない人が少ない、という説明を柄沢さんから受けた。
その説明が本当かどうかを、僕は最後まで確かめられていない。
聞き取り ―― 一人四十分
聞き取りは、一月二十七日から二月二日にかけて、十七人にやった。
母語の通訳を一人お願いした。紹介してくれたのは会社だった。その時点で、僕は違和感を持たなかった。
場所は、第一工場の二階の会議室。窓から荷さばき場が見える。フォークリフトの音が入る。
僕は事前に、質問を二十二個作っていた。労働時間、休日、賃金の控除、寮の費用、パスポートの保管、相談窓口の有無。
一人目は、二十四歳の男性だった。
労働時間を聞いた。通訳が訳した。本人が答えた。通訳が「特に問題ありません、と言っています」と言った。
本人の発話は、十秒くらいだった。訳は、五秒だった。
僕は「休日は取れていますか」と聞いた。
「問題ありません」
「寮の費用はいくら引かれていますか」
「分かりません、会社が決めています、と」
三人目くらいで、僕は気づいた。全員が、同じ速さで、同じ短さで答えている。
十七人やって、十七人が「問題ない」と言った。
重い違反は出てこなかった。労働時間の記録は残っていた。給与の控除は明細に書いてあった。パスポートは本人が持っていた。
僕のメモには、四十分×十七人ぶんの空白が並んでいた。
五度の中で
聞き取りで何も出なかったので、僕は現場に立つことにした。
二月四日から六日まで、三日間、朝の七時から昼まで、ラインの横にいた。
加工場は五度に保たれている。切り身のラインは、片手でトレーに並べて、片手で重さを合わせる。手が速い人は、一枚一秒くらいで置いていく。
指先が痛くなる。三時間で、僕は二回、休憩室に逃げた。逃げた先で、缶のコーンスープを買った。百三十円だった。
作業をしていた女性が、僕を見て少し笑った。
言葉は交わしていない。笑われたのだと思う。そう思うのが妥当だ。
服に匂いがついた。魚の匂いというより、冷えた水の匂いだった。ホテルに戻ってシャワーを浴びても、コートから取れなかった。
三日目の昼に、休憩室で、通訳の人と二人になった。
僕は「本当のことを言っていないと思いますか」と聞いた。
通訳の人は、少し黙ってから、こう言った。
「本当のことです。この会社のことは」
寮 ―― 二月七日
二月七日の土曜、寮を見せてもらった。
工場から歩いて八分の、二階建ての建物だった。もとは社員寮で、築三十一年。一部屋に二人。二段ベッドではなく、布団が二組敷けるようになっている。
台所は共同で、冷蔵庫が三台あった。棚には、僕の読めない文字のラベルが貼られた調味料が並んでいた。
風呂は共同で、時間帯が決まっていた。掲示が日本語だけで貼ってある。
寮費は月一万二千円。光熱費が三千円から六千円。控除の明細と一致していた。
エアコンは各部屋にあった。三部屋のうち一部屋は、リモコンの電池が切れていた。
チェックリストの項目としては、この寮は問題がなかった。僕は十九項目のうち、十七に丸を付けた。丸を付けられなかったのは、避難経路の掲示が日本語だけだったことと、相談窓口の掲示がなかったことだ。
丸が十七個ついた紙を見ながら、僕は、自分が何を確認しに来たのか、少し分からなくなった。
帰り際、玄関で、二十代半ばに見える男性とすれ違った。
僕は、聞き取りをした十七人の一人かもしれないと思った。顔が思い出せなかった。四十分ずつ、十七回向かい合ったのに。
会社の外
その一言から先が、この案件の本体だった。
実習生の多くは、来日する前に、母国の仲介業者へ費用を払っている。渡航前の手数料だ。借金をして払う人が多い。
金額は、人によって違った。僕が最終的に把握できた範囲では、日本円で四十万円から百二十万円のあいだだった。
この借金は、日本の会社の帳簿には一行も出てこない。会社が取ったわけではない。会社は知らないことになっている。
だが、借金がある人は、辞められない。辞められない人は、「問題あります」と言わない。
僕が二十二個の質問で聞いていたのは、全部、この会社の中のことだった。
調査の範囲は、契約書で「貴社の事業所における労働環境」と書かれていた。範囲外だ、と言うのは簡単だった。
僕は久保田さんに電話した。二月十日の夜、二十二時半。
久保田さんは「範囲の話をしてるうちは、仕事になってないよ」と言った。
そのとおりだと思った。思ったが、どう書けばいいのかは分からなかった。
社内レビュー ―― 二月十七日
中間報告の二日前に、久保田さんのレビューがあった。オンラインで四十分。
僕は、渡航前費用を報告書の中心に据えた構成を持っていった。
久保田さんは、最初の三枚を見て、こう言った。
「これ、誰が読む資料?」
「小売の担当者と、社長です」
「その二人が、これを読んで、来週何をする?」
僕は答えられなかった。
久保田さんは「事実を並べるのは調査。何をするかを書くのが仕事」と言った。それから、少し間を置いて、「でも、書けないものを書けないままにしておくのも、たまには仕事だから」と付け足した。
矛盾している、と思った。二つとも正しい、とも思った。
そのレビューのあと、僕は構成を組み替えた。組み替えた結果、渡航前費用の話は、資料の後ろのほうへ移動した。
移動させたのは久保田さんではない。僕だ。
中間報告 ―― 結論の色
二月十九日に、中間報告をした。
出席したのは、社長と柄沢さんと総務部長。そして、取引先の小売の担当者が一人、オンラインで入っていた。
僕は、重大な違反は確認されなかったこと、記録と控除の運用には整備の余地があること、そして渡航前費用が構造的な論点として存在することを話した。
小売の担当者が、最初に口を開いた。
「それは、御社の管理の問題ではない、ということでよろしいですか」
僕は「はい」と答えた。
いま振り返ると、僕はそこで一秒も迷わなかった。答えとしては正しい。会社の管理の問題ではない。
社長が、少し安心した顔をしたのが見えた。
柄沢さんは、表情を変えなかった。
報告書のドラフトで、僕はこの論点を「今後留意すべき事項」という見出しの下に置いた。「是正を要する事項」ではなく。
この置き方は、二日考えて決めた。二日考えた結論としては、弱かったと思う。
生活 ―― 二十七歳
年収は六百八十万円。家は都内の1K、家賃は九万二千円。この二ヶ月半、そこにはほとんどいなかった。
港町のビジネスホテルは、一泊七千二百円。朝食が付いていて、焼き魚が出た。九日目くらいから、焼き魚を取らなくなった。
土曜に一度、港の食堂に入った。刺身の定食が千三百円だった。おいしかった。おいしいと思った自分に、特に何も思わなかった。それを後で思い出して、少し気持ち悪くなった。
体重は、二ヶ月で三キロ減った。寒いところに立っていたからだと思う。
夜、ホテルで報告書を書いていると、二十三時くらいに、外を漁協のトラックが通る音がした。毎晩ほぼ同じ時刻だった。三週目には、その音で時計を見なくなった。
二月の終わりに、大学の同期から結婚式の連絡が来た。四月の第二土曜。出欠の返事を、僕は九日置いた。その時点で四月に何をしているか分からなかったからだ。
返事を送ったのは、最終報告の日程が決まった日だった。出席、と打った。打ちながら、この二ヶ月半、誰かに近況を話していないことに気づいた。話せる内容が、あまりなかった。
最終報告
三月十三日に、最終報告をした。
成果物は、調査結果の報告書と、是正計画と、相談窓口の設置案だった。
相談窓口は、社内ではなく、社外の第三者に置く形にした。母語で受けられるようにする、というところまで書いた。運用する人をどう確保するかは、書けなかった。
渡航前費用については、「仕入先および送り出し側の実態を、次年度に確認する」と書いた。
誰がやるのかは、書かなかった。
社長は、最終報告のあと「勉強になりました」と言った。
柄沢さんは、帰り際に僕のところへ来て、こう言った。
「相馬さん、あの子らね、三年で帰るんですよ」
「三年で帰る人に、どこまでやるのが正しいのか、私は三十年考えてます」
答えを持っていなかった。「そうですね」と言った。
いまでも、そう言ってしまったことを覚えている。
後記 ―― 九月
半年後の九月、別の案件の移動中に、久保田さんから聞いた。
あの会社で、実習生が一人、いなくなったらしい。失踪という扱いになった。
僕が聞き取りをした十七人の中にいたのかどうかは、分からない。聞かなかった。
聞けば分かったと思う。聞かなかったのは、たぶん、知りたくなかったからだ。
僕が作った相談窓口が、その人に届いていたのかも分からない。窓口の番号は、寮の掲示板に貼ることになっていた。貼ったかどうかを、僕は確認していない。
あの三日間、五度の中で、僕の隣でトレーに切り身を並べていた人たちは、いまも一枚一秒で置いているのだと思う。
僕の報告書は、A4で四十二ページあった。そのうち、渡航前費用の話は、半ページだった。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。