五十対五十というのは、決められないという意味だった
三十年の関係を終わらせる方式を四つ並べた。自分の十一年目については、並べる相手がいなかった――佐久間が、終わらせ方について書いた記録。
九月十二日、僕は二つの応接室で、同じ資料を説明した。午前が本社の十四階、午後が別の会社の二十二階。中身は一文字も変えていない。それがこの案件の、唯一のルールだった。
佐久間です。三十四歳。入社して十一年目になる。
アサイン ―― 依頼主が真ん中にいる
クライアントは、樹脂成形の会社だった。
設立は三十年前。自動車以外の産業機器向けの部品を作っている。工場が三つ。従業員は三百四十人。売上は百二十億円。
この会社は、二社の合弁だった。
一社は化学メーカーで、材料を供給している。もう一社は商社で、販路を持っている。出資比率は五十対五十。取締役は三人ずつ。社長は化学メーカーから、副社長は商社から来ていた。
依頼は、資本構成の見直しだった。
きっかけは、化学メーカーの側が、この事業から手を引きたいと言い始めたことだった。中期計画で事業の絞り込みをやっていて、この合弁が対象に入った。
ただし、依頼主は化学メーカーではなかった。合弁会社そのものだった。
つまり、僕たちを雇っているのは、これから解体されるかもしれない会社だった。
マネージャーの大屋さんが、初回の帰りに言った。
「これ、真ん中に立つやつだからね」
「佐久間くん、向いてると思うよ」
僕は「はい」と答えた。褒められたのだと思った。あとで、そうとも限らないと思うようになった。
最初に決めたこと
立ち上がりの週に、一つだけルールを決めた。
両方の親会社に、同じ資料を、同じ日に出す。片方にだけ先に見せない。片方から聞いた話を、もう片方に伝えるときは、事前に断る。
これを、A4一枚にして、社長と副社長の両方に署名してもらった。
このとき僕は、形式的な手続きのつもりでいた。
実際には、この一枚がこの案件でいちばん役に立った。
十一月に、商社側の部長から電話があって、「化学さんには、あの数字はまだ出さないでもらえますか」と言われた。
僕は「出します」と答えた。
そのとき、断る理由として出したのが、この一枚だった。自分の判断ではなく、両方が署名した手続きの話にできた。電話は三分で終わった。
三十年ぶんを読む
十月は、ほとんど資料を読んでいた。
合弁契約書が一通。締結は三十年前。その後の変更覚書が七通。うち二通は、押印はあるが、取締役会の決議記録が見つからなかった。
株主間の取り決めで、確認したのは五つだった。持分の譲渡制限。相手方の優先買取権。デッドロックになったときの手続き。競業避止。それから、解散の要件。
いちばん厄介だったのは、デッドロックの条項だった。
取締役会が三対三で割れたとき、どうするか。書いてあったのは「両社の協議による」だった。
三十年前にこれを書いた人は、たぶん、まだ関係が良かった。
五十対五十というのは、対等という意味だと思われている。実際には、両方が拒否権を持っているという意味になる。どちらも動かせる。どちらも止められる。止めるほうが簡単だ。
三十年のあいだに、この会社は一度も設備投資の大型案件を決めていなかった。決めようとした記録は三回あった。三回とも、片方が慎重になって、翌年に持ち越されていた。
僕は、この三回を資料にした。二枚。この二枚が、あとで効いた。
十一月 ―― 四つの方式
十一月に、四つの方式を並べた。
一つ目。商社が化学メーカーの持分を全部買う。単独子会社になる。
二つ目。第三者に、両社の持分をまとめて売る。
三つ目。事業を分けて、それぞれが引き取る。成形の工場と、販売機能を切り離す。
四つ目。現状維持。ただし、投資の決め方を変える。
比較表は八列にした。企業価値の考え方、税務、従業員の雇用、取引の継続性、実行に要する期間、必要な同意、リスク、それから出向者の処遇。
八列目は、大屋さんに言われて足した。
「佐久間くん、人のとこ、最後に足すと終わらないよ」
出向者は十八人いた。化学メーカーから九人、商社から九人。工場長、経理部長、営業の課長。中核のところに入っている。
この十八人は、方式が決まっても帰る先が決まらない。それぞれの親会社の人事の話になる。
八列目は、最終報告のときまで、半分が空欄だった。
十二月 ―― 二つの応接室
十二月から、僕は毎月二回、同じ説明を二回ずつやるようになった。
化学メーカーの反応と、商社の反応は、最初から違った。
化学メーカーは、金額よりも時期を気にした。年度内に方針を決めたい。理由は、中期計画の開示のタイミングだった。
商社は、時期よりも金額を気にした。そして、単独で持ったあとの経営をやる人がいない、という話を早い段階でした。
この二つは、噛み合っていなかった。
噛み合っていないことを、どちらも相手には言っていなかった。二社の役員同士は、月に一度、合弁会社の取締役会で顔を合わせている。そこでは、この話はほとんど出ていない。
僕が両方から聞いた話を、僕だけが両方知っている。それが四ヶ月続いた。
一月のある日、僕は自分の手帳に「これは支援なのか」と書いた。
書いたあと、大屋さんに一度だけ相談した。大屋さんは「一枚あるだろ」と言った。署名した紙のことだった。
「それがあるから、佐久間くんは仲介じゃなくて分析なんだよ」
理屈としては、そのとおりだった。理屈としては。
二度見送られている
ここで、自分の話を少しだけ書く。
僕は十一年目で、まだマネージャーではない。二度、見送られている。
一度目は三年前で、二度目は去年だった。理由は、二度とも同じようなことを言われた。分析は堅い、資料は正確、ただ、案件を取る動きが弱い。
去年、僕の二年下の人がマネージャーになった。その人とは同じ案件で一度組んだことがある。その人のほうが向いているのは、自分でもわかる。
この案件で、僕は実質的にマネージャーの役回りをやっていた。クライアントに出す名刺の肩書きは、シニアコンサルタントだった。
社長は、僕のことを「佐久間さん」と呼んだ。副社長も同じだった。誰も、肩書きの話をしなかった。
そのことで、僕は少し楽だった。楽だったということを、あとで思い出した。
二月 ―― 工場の話
二月に、三つの工場のうち、いちばん大きいところに行った。
理由は、方式ごとに工場をどう扱うかを詰める必要があったからだ。三つ目の方式――事業を分ける案――だと、この工場は商社側に残らない。
行ったのは二月十三日で、雪が少し降っていた。駅からタクシーで二十五分。事務棟は二階建てで、階段の手すりが冷たかった。
工場長は、化学メーカーからの出向者だった。五十三歳。この工場に七年いる。
僕は、設備の稼働と、投資の履歴を聞きに行った。
その人は、一時間半、きちんと答えてくれた。数字も、こちらが聞く前に用意してあった。
最後に、帰り際、こう聞かれた。
「佐久間さん、私はどっちに行くんですか」
僕は「決まっていません」と答えた。
事実だった。八列目は、そのとき空欄だった。
工場長は「そうですよね」と言って、それから「ここの連中は、どっちにも行かないですからね」と言った。
その意味を、僕はすぐには理解しなかった。
三百四十人のうち、出向者は十八人だ。残りの三百二十二人は、この合弁会社の社員だった。化学メーカーの社員でも、商社の社員でもない。
三十年前にこの会社ができたときに新卒で入った人が、まだ四人いる。定年まで、あと数年だ。
その人たちにとって、親会社二社は、自分の会社ではない。ずっと、自分の会社の上に二つの会社がある、という状態だった。
帰りの電車で、僕は比較表を開いた。八列のうち、七列目までは、二社にとっての損得の話だった。
八列目の「出向者の処遇」も、二社の人の話だった。
三百二十二人が入る列は、どこにもなかった。
雇用の継続、という項目は三列目に入っていた。ただしそれは、方式ごとに雇用が守られるかという判定で、丸と三角しか書いていない。
僕は、その日のうちに列を足そうとした。足して、途中でやめた。
何を書けばいいかがわからなかった。三百二十二人にとって、親会社が一社になることは、良いことなのか悪いことなのか。決められなかった。
決められないものを比較表に載せると、表が壊れる。そう判断した。いまでも、その判断が正しかったのかはわからない。
最終報告 ―― 三月六日
最終報告は、三月六日だった。
出席は、合弁会社の取締役六人と、両社の事業部門の責任者。
僕が出したのは、四つの方式の比較と、推奨する方式が一つ。
推奨は、一つ目だった。商社が持分を取得して単独子会社にする。ただし、経営を担う人材が出せるまでの二年間、化学メーカーは材料供給の契約を現行条件で継続する。
金額の考え方も出した。幅で出した。上と下で、二十七億円の差があった。この幅は、埋まらなかった。埋める作業は、この案件の範囲ではなかった。
三十年の設備投資の二枚も、この日に使った。
社長が、その二枚をしばらく見ていた。
それから、こう言った。
「これ、三回とも、私が慎重になったほうです」
僕は「はい」と答えた。
会議室が静かになった。誰もフォローしなかった。副社長も、化学メーカーの人も、何も言わなかった。
社長は、自分でこう続けた。
「二人で決めるというのは、決めないという意味だったんですね」
その言葉を、僕は資料に入れていない。入れなくてよかったと思う。
質問は、そのあと十四出た。十二は数字の確認だった。残りの二つは、実行の順番の話だった。
誰も、四つ目の方式――現状維持――について聞かなかった。
僕は、四つ目にいちばん時間をかけていた。投資の決め方を変える案で、取締役会の下に投資委員会を置いて、一定額以下は多数決にするという設計だった。二十枚ある。
その二十枚は、この日、一枚も開かれなかった。
会議のあと、副社長に「四つ目は、無理でしたか」と聞いた。
副社長は「三十年やって、できてないですから」と答えた。
それだけだった。反論する材料は、僕の手元にもなかった。
生活 ―― 三十四歳
三十四歳。年収は九百六十万円。
家は、会社まで四十分の2DK。家賃は十三万二千円。一人で住んでいる。
この案件のあいだ、僕は生活の形をほとんど変えなかった。二十三時に帰って、シャワーを浴びて、一時に寝る。土曜の午前に洗濯をして、午後に走る。十キロ走ると、だいたい一時間ちょうどになる。
去年から、走るのが五分ほど遅くなった。
十一年やっていると、慌てなくなる。慌てなくなったぶん、速くもならない。
同期は三十一人いた。いま会社に残っているのは九人で、そのうち僕を含めた二人がマネージャーではない。
もう一人とは、年に一回くらい飲む。去年の暮れに飲んだとき、その人が「辞めるほど嫌でもないんだよな」と言った。
僕は「そうだね」と答えた。
後記 ―― 六月
六月に、大屋さんから連絡があった。
方式は、一つ目で決まったらしい。決まったのは五月の下旬で、実行は翌年度に入ってからになる。金額は、僕が出した幅の下から三分の一のところで着地したと聞いた。
出向者十八人のうち、十一人は残ることになった。残りの七人は、それぞれの親会社に戻る。うち二人は、戻る先の部署がまだ決まっていない、という話だった。
そのころ、僕の三度目の評価が出た。
マネージャーになった。
案件が終わってから、三ヶ月後だった。何が評価されたのかは、面談で聞いた。「真ん中に立つ案件を、こじらせずに終わらせた」と言われた。
僕は「ありがとうございます」と答えた。
答えながら、二つのことを考えていた。
一つは、二年前と三年前の自分と、いまの自分で、何が変わったのかがわからないということ。
もう一つは、あの案件で僕がやったのは、三十年続いたものを終わらせる段取りだった、ということだ。
続けるほうの段取りは、まだ一度もやったことがない。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。