体験記 No. 62

五十対五十というのは、決められないという意味だった

案件樹脂成形の合弁会社・持分整理と合弁解消の検討
話の中心最終報告
語り手佐久間 / 34歳・入社11年目(マネージャー昇格を二度見送られている)
読了約8分 · 5,000字
案件の時間軸 ―― 着任から最終報告までの、ひと通り
アサイン
立ち上がり
仮説構築
中間報告
最終報告
出資は50対50・取締役は3対3出向者18人の行き先が最後まで空欄

三十年の関係を終わらせる方式を四つ並べた。自分の十一年目については、並べる相手がいなかった――佐久間が、終わらせ方について書いた記録。

九月十二日、僕は二つの応接室で、同じ資料を説明した。午前が本社の十四階、午後が別の会社の二十二階。中身は一文字も変えていない。それがこの案件の、唯一のルールだった。

佐久間です。三十四歳。入社して十一年目になる。

アサイン ―― 依頼主が真ん中にいる

クライアントは、樹脂成形の会社だった。

設立は三十年前。自動車以外の産業機器向けの部品を作っている。工場が三つ。従業員は三百四十人。売上は百二十億円。

この会社は、二社の合弁だった。

一社は化学メーカーで、材料を供給している。もう一社は商社で、販路を持っている。出資比率は五十対五十。取締役は三人ずつ。社長は化学メーカーから、副社長は商社から来ていた。

依頼は、資本構成の見直しだった。

きっかけは、化学メーカーの側が、この事業から手を引きたいと言い始めたことだった。中期計画で事業の絞り込みをやっていて、この合弁が対象に入った。

ただし、依頼主は化学メーカーではなかった。合弁会社そのものだった。

つまり、僕たちを雇っているのは、これから解体されるかもしれない会社だった。

マネージャーの大屋さんが、初回の帰りに言った。

「これ、真ん中に立つやつだからね」

「佐久間くん、向いてると思うよ」

僕は「はい」と答えた。褒められたのだと思った。あとで、そうとも限らないと思うようになった。

最初に決めたこと

立ち上がりの週に、一つだけルールを決めた。

両方の親会社に、同じ資料を、同じ日に出す。片方にだけ先に見せない。片方から聞いた話を、もう片方に伝えるときは、事前に断る。

これを、A4一枚にして、社長と副社長の両方に署名してもらった。

このとき僕は、形式的な手続きのつもりでいた。

実際には、この一枚がこの案件でいちばん役に立った。

十一月に、商社側の部長から電話があって、「化学さんには、あの数字はまだ出さないでもらえますか」と言われた。

僕は「出します」と答えた。

そのとき、断る理由として出したのが、この一枚だった。自分の判断ではなく、両方が署名した手続きの話にできた。電話は三分で終わった。

三十年ぶんを読む

十月は、ほとんど資料を読んでいた。

合弁契約書が一通。締結は三十年前。その後の変更覚書が七通。うち二通は、押印はあるが、取締役会の決議記録が見つからなかった。

株主間の取り決めで、確認したのは五つだった。持分の譲渡制限。相手方の優先買取権。デッドロックになったときの手続き。競業避止。それから、解散の要件。

いちばん厄介だったのは、デッドロックの条項だった。

取締役会が三対三で割れたとき、どうするか。書いてあったのは「両社の協議による」だった。

三十年前にこれを書いた人は、たぶん、まだ関係が良かった。

五十対五十というのは、対等という意味だと思われている。実際には、両方が拒否権を持っているという意味になる。どちらも動かせる。どちらも止められる。止めるほうが簡単だ。

三十年のあいだに、この会社は一度も設備投資の大型案件を決めていなかった。決めようとした記録は三回あった。三回とも、片方が慎重になって、翌年に持ち越されていた。

僕は、この三回を資料にした。二枚。この二枚が、あとで効いた。

十一月 ―― 四つの方式

十一月に、四つの方式を並べた。

一つ目。商社が化学メーカーの持分を全部買う。単独子会社になる。

二つ目。第三者に、両社の持分をまとめて売る。

三つ目。事業を分けて、それぞれが引き取る。成形の工場と、販売機能を切り離す。

四つ目。現状維持。ただし、投資の決め方を変える。

比較表は八列にした。企業価値の考え方、税務、従業員の雇用、取引の継続性、実行に要する期間、必要な同意、リスク、それから出向者の処遇。

八列目は、大屋さんに言われて足した。

「佐久間くん、人のとこ、最後に足すと終わらないよ」

出向者は十八人いた。化学メーカーから九人、商社から九人。工場長、経理部長、営業の課長。中核のところに入っている。

この十八人は、方式が決まっても帰る先が決まらない。それぞれの親会社の人事の話になる。

八列目は、最終報告のときまで、半分が空欄だった。

十二月 ―― 二つの応接室

十二月から、僕は毎月二回、同じ説明を二回ずつやるようになった。

化学メーカーの反応と、商社の反応は、最初から違った。

化学メーカーは、金額よりも時期を気にした。年度内に方針を決めたい。理由は、中期計画の開示のタイミングだった。

商社は、時期よりも金額を気にした。そして、単独で持ったあとの経営をやる人がいない、という話を早い段階でした。

この二つは、噛み合っていなかった。

噛み合っていないことを、どちらも相手には言っていなかった。二社の役員同士は、月に一度、合弁会社の取締役会で顔を合わせている。そこでは、この話はほとんど出ていない。

僕が両方から聞いた話を、僕だけが両方知っている。それが四ヶ月続いた。

一月のある日、僕は自分の手帳に「これは支援なのか」と書いた。

書いたあと、大屋さんに一度だけ相談した。大屋さんは「一枚あるだろ」と言った。署名した紙のことだった。

「それがあるから、佐久間くんは仲介じゃなくて分析なんだよ」

理屈としては、そのとおりだった。理屈としては。

二度見送られている

ここで、自分の話を少しだけ書く。

僕は十一年目で、まだマネージャーではない。二度、見送られている。

一度目は三年前で、二度目は去年だった。理由は、二度とも同じようなことを言われた。分析は堅い、資料は正確、ただ、案件を取る動きが弱い。

去年、僕の二年下の人がマネージャーになった。その人とは同じ案件で一度組んだことがある。その人のほうが向いているのは、自分でもわかる。

この案件で、僕は実質的にマネージャーの役回りをやっていた。クライアントに出す名刺の肩書きは、シニアコンサルタントだった。

社長は、僕のことを「佐久間さん」と呼んだ。副社長も同じだった。誰も、肩書きの話をしなかった。

そのことで、僕は少し楽だった。楽だったということを、あとで思い出した。

二月 ―― 工場の話

二月に、三つの工場のうち、いちばん大きいところに行った。

理由は、方式ごとに工場をどう扱うかを詰める必要があったからだ。三つ目の方式――事業を分ける案――だと、この工場は商社側に残らない。

行ったのは二月十三日で、雪が少し降っていた。駅からタクシーで二十五分。事務棟は二階建てで、階段の手すりが冷たかった。

工場長は、化学メーカーからの出向者だった。五十三歳。この工場に七年いる。

僕は、設備の稼働と、投資の履歴を聞きに行った。

その人は、一時間半、きちんと答えてくれた。数字も、こちらが聞く前に用意してあった。

最後に、帰り際、こう聞かれた。

「佐久間さん、私はどっちに行くんですか」

僕は「決まっていません」と答えた。

事実だった。八列目は、そのとき空欄だった。

工場長は「そうですよね」と言って、それから「ここの連中は、どっちにも行かないですからね」と言った。

その意味を、僕はすぐには理解しなかった。

三百四十人のうち、出向者は十八人だ。残りの三百二十二人は、この合弁会社の社員だった。化学メーカーの社員でも、商社の社員でもない。

三十年前にこの会社ができたときに新卒で入った人が、まだ四人いる。定年まで、あと数年だ。

その人たちにとって、親会社二社は、自分の会社ではない。ずっと、自分の会社の上に二つの会社がある、という状態だった。

帰りの電車で、僕は比較表を開いた。八列のうち、七列目までは、二社にとっての損得の話だった。

八列目の「出向者の処遇」も、二社の人の話だった。

三百二十二人が入る列は、どこにもなかった。

雇用の継続、という項目は三列目に入っていた。ただしそれは、方式ごとに雇用が守られるかという判定で、丸と三角しか書いていない。

僕は、その日のうちに列を足そうとした。足して、途中でやめた。

何を書けばいいかがわからなかった。三百二十二人にとって、親会社が一社になることは、良いことなのか悪いことなのか。決められなかった。

決められないものを比較表に載せると、表が壊れる。そう判断した。いまでも、その判断が正しかったのかはわからない。

最終報告 ―― 三月六日

最終報告は、三月六日だった。

出席は、合弁会社の取締役六人と、両社の事業部門の責任者。

僕が出したのは、四つの方式の比較と、推奨する方式が一つ。

推奨は、一つ目だった。商社が持分を取得して単独子会社にする。ただし、経営を担う人材が出せるまでの二年間、化学メーカーは材料供給の契約を現行条件で継続する。

金額の考え方も出した。幅で出した。上と下で、二十七億円の差があった。この幅は、埋まらなかった。埋める作業は、この案件の範囲ではなかった。

三十年の設備投資の二枚も、この日に使った。

社長が、その二枚をしばらく見ていた。

それから、こう言った。

「これ、三回とも、私が慎重になったほうです」

僕は「はい」と答えた。

会議室が静かになった。誰もフォローしなかった。副社長も、化学メーカーの人も、何も言わなかった。

社長は、自分でこう続けた。

「二人で決めるというのは、決めないという意味だったんですね」

その言葉を、僕は資料に入れていない。入れなくてよかったと思う。

質問は、そのあと十四出た。十二は数字の確認だった。残りの二つは、実行の順番の話だった。

誰も、四つ目の方式――現状維持――について聞かなかった。

僕は、四つ目にいちばん時間をかけていた。投資の決め方を変える案で、取締役会の下に投資委員会を置いて、一定額以下は多数決にするという設計だった。二十枚ある。

その二十枚は、この日、一枚も開かれなかった。

会議のあと、副社長に「四つ目は、無理でしたか」と聞いた。

副社長は「三十年やって、できてないですから」と答えた。

それだけだった。反論する材料は、僕の手元にもなかった。

生活 ―― 三十四歳

三十四歳。年収は九百六十万円。

家は、会社まで四十分の2DK。家賃は十三万二千円。一人で住んでいる。

この案件のあいだ、僕は生活の形をほとんど変えなかった。二十三時に帰って、シャワーを浴びて、一時に寝る。土曜の午前に洗濯をして、午後に走る。十キロ走ると、だいたい一時間ちょうどになる。

去年から、走るのが五分ほど遅くなった。

十一年やっていると、慌てなくなる。慌てなくなったぶん、速くもならない。

同期は三十一人いた。いま会社に残っているのは九人で、そのうち僕を含めた二人がマネージャーではない。

もう一人とは、年に一回くらい飲む。去年の暮れに飲んだとき、その人が「辞めるほど嫌でもないんだよな」と言った。

僕は「そうだね」と答えた。

後記 ―― 六月

六月に、大屋さんから連絡があった。

方式は、一つ目で決まったらしい。決まったのは五月の下旬で、実行は翌年度に入ってからになる。金額は、僕が出した幅の下から三分の一のところで着地したと聞いた。

出向者十八人のうち、十一人は残ることになった。残りの七人は、それぞれの親会社に戻る。うち二人は、戻る先の部署がまだ決まっていない、という話だった。

そのころ、僕の三度目の評価が出た。

マネージャーになった。

案件が終わってから、三ヶ月後だった。何が評価されたのかは、面談で聞いた。「真ん中に立つ案件を、こじらせずに終わらせた」と言われた。

僕は「ありがとうございます」と答えた。

答えながら、二つのことを考えていた。

一つは、二年前と三年前の自分と、いまの自分で、何が変わったのかがわからないということ。

もう一つは、あの案件で僕がやったのは、三十年続いたものを終わらせる段取りだった、ということだ。

続けるほうの段取りは、まだ一度もやったことがない。

ことわり

この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。

しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。

この話の翌週、あなたなら何をする?

同じ現場に立ったとき、どう動くタイプなのか。16問で当たりをつけられます。

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