「先生が足りない」と言われた日に、僕は自分の子の延長保育料を払った
十八時に帰る人間が、十八時に帰れない人たちのシフトを設計する。その四ヶ月のことを、沖田が分単位で書いた記録。
四月七日、十八時二分。僕は自分の娘を迎えに行って、延長保育の三百円を払った。その日の午後に作っていた資料の表題は、「職員配置の適正化」だった。
沖田です。三十八歳。マネージャーになって三年目になる。
アサイン ―― 四月から一人
案件が決まったのは、三月の下旬だった。
同じ週に、妻の海外赴任が決まった。四月から二年。決まってから出発まで、三週間しかなかった。
娘は五歳で、来年から小学校に上がる。保育園は、家から自転車で七分のところにある。延長保育は十八時から。三十分ごとに三百円かかる。
僕は、パートナーの寺沢さんに相談した。案件を外してもらえるかを聞くつもりだった。
寺沢さんは、話を最後まで聞いて、「十八時に上がっていいよ」と言った。
「その代わり、朝は早いよ」
それで決まった。僕の稼働は、朝七時から十八時になった。夜は、娘を寝かせたあと、二十一時半から二時間くらい。
いま思うと、このとき僕は「助かった」としか思っていない。それが十八時以降に誰かがやっている作業になる、という想像を、その日はしていない。
クライアント ―― 四十園
クライアントは、認可保育所を四十園運営している会社だった。
首都圏に三十二園、地方に八園。園児は二千八百人。職員は六百二十人で、うち保育士の資格を持っている人が四百九十人。
売上は七十六億円。売上の八割以上が、自治体から入る給付費だった。
依頼は二つだった。職員の配置とシフトを作り直すこと。それから、採用と定着の打ち手を出すこと。
社長は四十四歳で、創業者の娘だった。初回の打ち合わせで、こう言った。
「現場から、人が足りないという声はずっと上がっています」
「ただ、人件費率はもう八十二パーセントなんです」
立ち上がり ―― 基準ちょうど
四月の第三週。僕は四十園ぶんの職員名簿とシフト表を集めた。
配置の基準は、子どもの年齢ごとに決まっている。ゼロ歳は三人に一人、一歳と二歳は六人に一人。年齢が上がると、一人が見る人数が増えていく。
この基準を満たしていない園は、一つもなかった。当たり前だ。満たしていなければ、そもそも運営できない。
僕が出した数字は、別のものだった。
四十園のうち、三十一園が「基準ちょうど」だった。
ちょうど、というのは、余りがゼロということだ。一人が急に休むと、その日は基準を割る。割ったときにどうしているかというと、園長が入る。主任が入る。事務の人が入る。それでも足りないと、他の園から呼ぶ。
四月から六月までの三ヶ月で、園長が保育に入った日数を数えた。一園あたり、平均で十九日だった。
十九日というのは、月に六日を超える。園長は、書類と保護者対応と採用面接をやる人だ。それを、月の四分の一は誰もやっていない。
五月十四日、十六時
五月に、僕は園を回った。十二園に行った。
いちばん印象に残っているのは、五月十四日の十六時だった。
首都圏の、駅から十分の園。二歳児のクラスに入らせてもらった。
十六時は、お迎えが始まる時間だ。保護者が来る。同時に、おやつのあとの片づけがあって、連絡帳を書く時間がある。
担任は二人いた。一人が保護者に対応すると、もう一人が十一人を見る。
十六時十二分、一人の子が泣き始めた。理由はわからない。
十六時十三分、保育士の方が抱き上げた。抱き上げたまま、別の子の靴下を履かせようとしていた。片手でやっていた。
十六時十五分、保護者が「すみません、今日どうでした」と聞いた。
保育士の方は、子どもを抱いたまま、笑顔で答えた。
僕は、部屋の隅に立っていた。手伝えない。資格がないし、部外者だ。
十六時二十分に、その方が僕のほうを見て、こう言った。
「先生が足りないって、こういうことなんですけど、伝わりますかね」
僕は「はい」と答えた。
答えながら、僕は自分の腕時計を見ていた。十六時二十一分だった。十七時十五分の電車に乗れば、十八時に間に合う。
そのことを考えていた自分に、気づいた。
六月 ―― 三つの数字
六月にかけて、僕は三つの数字を作った。
一つ目。四十園の、常勤換算での余力。基準に必要な人数に対して、実際に配置されている人数の差。全社で、プラス十一人だった。四十園で十一人。
二つ目。離職率。年間で十八・四パーセント。勤続三年未満の人に限ると、二十七パーセントを超えていた。
三つ目。採用。この年の四月に予定していた新卒の採用は四十二人で、実際に入ったのは三十人だった。内定辞退が十二人。
もう一つ、数字にならないところで時間を取られたことがある。
この事業には、制度から入ってくるお金がある。職員の処遇を改善するための加算で、要件を満たすと、給付費に上乗せされる。
僕は最初、これを単純に「人件費の原資」として扱っていた。
六月の頭に、人事の責任者に資料を見せたら、止められた。
「沖田さん、この加算、使い道が決まってるんです」
決まっている、というのは、賃金の改善に充てる必要がある、ということだった。配置を厚くする原資としてそのまま使えるわけではない。要件の読み方も、自治体によって説明の細かさが違う。
僕は、三日かけて要件を読み直した。読み直して、資料の該当ページを三枚、作り直した。
正直に書くと、この三日は苦手な時間だった。制度の条文を読むのは、僕がこの仕事で得意なことではない。
ただ、この三日をやらないと、中間報告の議論が全部「その加算は使えるのか」という話に吸い込まれていたと思う。実際、中間報告でその質問は二回出た。二回とも、三日かけて作った三枚で止まった。
三つ目の数字が、いちばん効いた。
余力を各園に一人ずつ置くには、四十人が要る。四十人を採るには、いまの歩留まりだと、五十五人の内定が要る。五十五人の内定を出すには、応募が七百人くらい要る。この年の応募は、三百十人だった。
つまり、いま決めても、来年の四月には埋まらない。
僕は、この計算を六月十九日の夜に自宅でやった。二十三時四十分にできあがった。
できあがったときに、最初に思ったのは「これは中間報告で言いにくい」だった。
中間報告 ―― 七月三日
七月三日、園長会での中間報告だった。
出席は、社長、本部の人事と運営の責任者、それから園長が四十人。いちばん大きい会議室に、五十人近くが入った。
十四時から十六時。僕の持ち時間は四十分だった。
僕は、三つの数字を出した。基準ちょうどが三十一園。園長が保育に入る月六日。そして、余力を作るには少なくとも一年半かかること。
一年半、というところで、空気が変わった。
手を挙げたのは、地方の園の園長だった。五十代の女性で、この会社に十六年いる人だった。
「一年半のあいだ、うちの職員はどうすればいいんでしょうか」
僕は、その期間の運用案を用意していた。系列園からの応援を制度化する、パート職員の時間帯配置を組み替える、書類の一部を本部に巻き取る。三つ出した。
園長は、最後まで聞いてから、こう言った。
「応援に行く職員は、自分の園の人が減るってことですよね」
そのとおりだった。全社でプラス十一人しかないところから、応援を出す。出した園は、その日、基準ちょうどになる。
僕は「はい」と答えた。それ以上は言わなかった。言えることがなかった。
そのあと、別の園長が言った。
「沖田さん、うちに一日いてもらえませんか」
嫌味に聞こえるかもしれないが、この人は本当にそう言っていた。
僕は「伺います」と答えた。
実際に行ったのは、八月の第二週だった。朝七時十五分から、十七時四十分までいた。最後までいなかった。
八月十二日、十七時四十分
その日のことを、いくつか書いておく。
七時十五分、園に着いた。すでに三人の職員が来ていた。開所は七時半。最初の子は七時三十四分に来た。
九時十分、園長が電話を受けた。パートの職員が一人、子どもの熱で休むという連絡だった。この日の配置は、基準ちょうどだった。
九時十八分、園長が別の園に電話をかけた。断られた。
九時三十一分、二本目の電話で、隣の区の園から一人出してもらうことになった。到着は十一時。
九時三十一分から十一時までのあいだ、園長がクラスに入っていた。その時間に予定されていたのは、十月入園の見学対応が二件と、監査の書類だった。見学は主任が代わった。書類は、その日は手をつけていない。
十二時四十分、僕は職員室で昼食をとった。持参のパンを食べた。職員の方は、四人が交代で十五分ずつ食べていた。十五分というのは、休憩ではない。休憩は別に取ることになっているが、その日、取れた人は一人もいなかった。
十五時二十分、三歳児が転んで、額を切った。切ったといっても一センチもない。止血して、冷やして、保護者に電話をした。園長がかけた。四分の電話だった。そのあと、事故の記録を書く。書式がA4で二枚ある。
十七時四十分、僕は帰った。
帰るときに、朝いた三人のうち二人がまだいた。その二人は、十九時十五分の閉所までいる。
僕は「ありがとうございました」と言って、駅まで歩いた。八月の夕方で、まだ明るかった。
自転車を置いてある駅に着いて、娘を迎えに行ったのが十八時五十二分。その日は妻の母が来てくれていたので、延長はなかった。
家に着いて、僕はメモを取った。時刻を全部書いた。書いているあいだ、ずっと落ち着かなかった。
落ち着かなかった理由は、あとでわかった。あの日、僕は一日中、記録を取っていた。記録を取っている人間は、その場で何も担っていない。
生活 ―― 十八時二分
三十八歳。年収は千百八十万円。
この会社の保育士の、経験五年くらいの人の年収は、加算まで入れて三百六十万円前後だった。僕は、その数字を自分の資料に書いている。
四月から七月まで、僕が延長保育料を払ったのは十一回だった。
十八時二分。十八時六分。十八時一分。一分でも過ぎると三十分ぶん取られる。
娘が最後の一人だった日が、四回ある。
四回目のとき、担任の先生が「大丈夫ですよ、お仕事ですもんね」と言った。
僕は「すみません」と言った。
言ってから、自分が四十園の職員配置を設計している人間だということを、その人は知らないんだな、と思った。知られなくてよかったと思った。そう思った自分が、少し嫌だった。
夜は、娘を二十一時に寝かせて、それから作業をした。寝室のドアを閉めて、リビングのテーブルでやる。二十三時を過ぎると、集中が落ちる。それまでの三年間、僕は深夜二時まで働くことを、そんなに苦だと思っていなかった。いまは、二十三時半に眠い。
妻とは、週に二回、朝にビデオ通話をした。向こうは夜になる。娘が画面に向かって話すのを、横で見ていた。
六月に、娘が「ママ、いつ帰ってくるの」と聞いた。妻は「もうちょっとね」と答えた。
僕は何も言わなかった。もうちょっとではないことを、二人とも知っていた。
最終報告と、そのあと
八月二十八日に、最終報告をした。
出したのは、三段階の計画だった。
一年目は、応援体制と本部への業務移管で回す。二年目に、採用の導線を変えて、余力を二十人作る。三年目に、四十園すべてに一人ずつ。
採用の打ち手は、実習生の受け入れを増やすことと、離職者の再雇用を制度にすることの二つが中心になった。派手なものは、何も出せなかった。
社長は「三年ですか」と言った。
僕は「三年です」と答えた。
社長はしばらく黙って、「わかりました」と言った。
その言い方は、納得というより、諦めに近かったと思う。
後記 ―― 三月
翌年の三月に、運営の責任者の方から連絡があった。
応援の制度は動いていた。本部への業務移管も、書類の三種類ぶんは進んだ。
離職率は、十八・四から十六・九になった。下がったが、目標は十四だった。
採用は、四十五人に内定を出して、三十四人が入ることになった、という話だった。
その人は「去年よりは、いいです」と言った。
僕は「よかったです」と答えた。
四十園に一人ずつの余力は、まだない。
娘は、その四月から小学校に入った。学童は十八時までで、延長はない。妻はまだ向こうにいる。
延長保育料の三百円は、もう払わなくてよくなった。
代わりに、十八時に誰もいない家に、娘が先に帰るようになった。
僕はいまも十八時に上がっている。寺沢さんは何も言わない。あのとき「朝は早いよ」と言った人が、四ヶ月ぶんの十八時以降を誰に振っていたのかを、僕は一度も聞いていない。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。