手順書は九十四ページになりました。そのとおりにやっても、同じものはできませんでした
残すための作業をすればするほど、その人が要らなくなっていくように見えました――都留が、教えられなかったことについて書いた記録です。
五月の連休が明けた月曜日、わたしは耳栓を渡されました。工場に入るには要る、と言われたからです。
都留です。四十歳。前の職場は工業高校で、十四年、機械科で教えていました。この会社に入って、一年目になります。
アサイン ―― 三年で七人
クライアントは、金型と鋳物を作っている会社でした。
創業は五十八年前。従業員は百七十人。工場は二つあって、一つは県の西部の、川沿いの平地にあります。
売上は三十四億円。取引先は、産業機械のメーカーが中心です。
依頼は、技能伝承でした。
きっかけは、人員構成表だったそうです。総務がその年の春に作った表で、五十五歳以上が二十九人いました。そのうち、現場の中核にいる七人が、三年以内に定年を迎える。
社長は五十一歳で、二代目でした。最初の打ち合わせで、こう言いました。
「うちは、人が辞めると、その人がやっていたことが消えるんです」
「消えたことに気づくのは、だいたい半年後です」
期間は六ヶ月。チームは二人でした。マネージャーの吉永さんは週に一度来て、あとはわたしが現地に入ることになりました。
立ち上がり ―― 音と粉
最初の二週間は、ただ工場にいました。
鋳造の工程は、大づかみに言うと、砂で型を作って、そこに溶けた金属を流して、冷やして、砂を落として、仕上げる、という順番になります。
言葉にすると五行です。実際には、そのあいだに三十くらいの判断があります。
工場は、暑いです。六月の時点で、溶解炉の周りは四十度を超えていました。床に砂が落ちていて、歩くと音がします。
耳栓をしていても、砂を落とす工程の音は聞こえます。会話は、ほとんど手振りでした。
わたしは最初の週に、二回、咳が止まらなくなりました。三日目からマスクを二枚重ねにしました。現場の人は、誰もそんなことをしていませんでした。
立っているだけで、シャツが背中に貼りつきます。昼の休憩で事務所に戻ると、冷房が効いていて、それが痛いくらいでした。
四日目に、班長の方から声をかけられました。
「先生、何を見てるんですか」
先生、と呼ばれました。工業高校から来たことは、社長が朝礼で紹介していました。
わたしは「すみません、いまはただ見ているだけです」と答えました。
班長の方は「見ててもわからんですよ」と言って、笑って行きました。
悪気はなかったと思います。ただ、その言葉は、六ヶ月のあいだずっと正しかったです。
七人の名前
七人のうち、いちばん先に定年を迎えるのが、西脇さんという方でした。
六十三歳。この会社に四十一年。定年は延長されていて、退職まであと十四ヶ月でした。
担当は、砂型の中に入れる中子という部品の造型と、湯道の設計です。溶けた金属がどこをどう流れるかを決める仕事だと、わたしは説明を受けました。
最初にお願いに行ったとき、西脇さんは「ええよ」と言いました。
そのあとで「何を書くの」と聞かれました。
わたしは「西脇さんがやっていることを、手順にします」と答えました。
西脇さんは、少し笑って、「手順はあるよ」と言いました。
実際、ありました。作業標準書という綴りが、事務所の棚にありました。十九年前に作られたものでした。
教えるのは得意なつもりでした
ここで、前の仕事の話を少しします。
教員をしていた十四年、わたしがやっていたのは、できない生徒をできるようにする仕事でした。旋盤の使い方も、製図も、順番に分けて、一つずつ確認すれば、だいたいの子はできるようになります。
わたしは、教えることには自信がありました。
その自信は、六月の第三週になくなりました。
西脇さんが湯道の位置を決めるところを、わたしは横で見ていました。図面を見て、三十秒くらい黙って、それから鉛筆で線を引きました。
わたしは「いま、何を見ていましたか」と聞きました。
西脇さんは「うーん」と言って、しばらく考えて、「肉厚かな」と答えました。
肉厚は図面に書いてあります。書いてある数字を見て三十秒かかる理由が、わかりませんでした。
同じ質問を、そのあと十回くらいしました。返ってきた答えは、「勘」「見た感じ」「前にこれで失敗したから」「だいたい」でした。
嘘をついているのではありません。この人は、本当に説明を持っていませんでした。
わたしが教えていた生徒たちと、いちばん違うのはそこでした。生徒は、できないことを説明できます。西脇さんは、できることを説明できません。
判断を聞く
七月に、聞き方を変えました。
「何をしますか」を聞くのをやめて、「どういうときに、いつもと違うことをしますか」を聞くようにしました。
これは、効きました。
西脇さんは、こういうことを話し始めました。
「梅雨どきは、砂が違う。手で握って、離したときに崩れる速さが違う」
「その日は、水を足す量を減らす。減らす量は、決まってない」
「前の日に炉を止めてるかどうかで、一発目は変える」
わたしは、この形でもう一度、七人全員に聞き直しました。
出てきた分岐は、全部で二百三十一ありました。そのうち、既存の作業標準書に書いてあったのは、十四でした。
年に二回のこと
二百三十一を、全部残すことはできませんでした。六ヶ月しかありません。
最初、わたしは頻度の高い順に並べました。毎日やることから片づけるのが、当たり前だと思ったからです。
それを吉永さんに見せたら、「逆じゃない?」と言われました。
「毎日やってることは、若い子も毎日見てるでしょ」
そのとおりでした。
並べ直しました。基準を「その人がいなくなったときに、取り戻すのに何日かかるか」にしました。
順番が、ひっくり返りました。
いちばん上に来たのは、炉の内張りを補修する作業でした。担当は六十一歳の方で、年に二回しかやりません。
前回やったのは、十一ヶ月前でした。若い人は、誰も見たことがありませんでした。
わたしが「どのくらいで覚えられますか」と聞いたら、その方は「三回はやらんと」と言いました。
年に二回で、三回。六年かかります。
この方の定年は、二年四ヶ月後でした。
わたしは、その日の夜にホテルで工程表を引き直しました。十一月の補修に、若い人を二人つける。そのために、十一月まで案件の記録作業を一部残す。契約は十月で終わるので、この部分は社内で回してもらう形にしました。
社長に頼みに行ったら、「二人も外せません」と言われました。最終的に、一人になりました。
中間報告 ―― 撮ることの副作用
八月の中間報告で、わたしたちは動画を提案しました。
判断の分かれ目を撮る。作業の全部ではなく、分岐のところだけを、短く。音声で本人に理由を言ってもらう。
社長は乗り気でした。
現場は、そうではありませんでした。
西脇さんではなく、別の方でした。仕上げを担当している五十九歳の方で、その場ではっきり反対しました。
「撮って、それを若いのが見て、できるようになるんですか」
「できるようになったら、わしは何をするんですか」
会議室が静かになりました。社長が「そういう話じゃない」と言いましたが、その先が続きませんでした。
わたしも、続けられませんでした。
あとで吉永さんに言われました。
「都留さん、あれ、答えなきゃいけなかったところだよ」
そのとおりでした。わたしは、記録したあとにその人が何をするのかを、決めないまま記録を頼んでいました。
九月に、社長と一緒に決めました。記録に協力した七人には、退職後に指導員として月四日、来てもらう。契約は一年ごとに更新する。日当を決めて、紙にしました。
それを持って、もう一度、七人のところを回りました。
仕上げの方は「まあ、それなら」と言いました。
西脇さんは、紙を読んで、こう言いました。
「都留さん、これ、わしのためですか。会社のためですか」
わたしは「両方です」と答えました。
西脇さんは「そうか」と言って、それ以上は何も言いませんでした。
生活 ―― 単身の部屋
四十歳。年収は八百四十万円です。教員の最後の年は、六百三十万円でした。
工場は都内から新幹線と在来線で二時間半かかるので、週の半分は近くのビジネスホテルに泊まりました。一泊六千八百円。朝食が付いています。
朝は六時半に出て、七時十分の朝礼に間に合わせます。現場の人は七時前に来ています。
妻と、中学一年の娘がいます。娘は、わたしが学校を辞めることに、いちばん長く反対しました。「お父さんの授業、受けたかった」と言われたことがあります。これは、たぶん本気ではなかったと思いますが、わたしはときどき思い出します。
九月に、ホテルの部屋で、動画の音声を文字に起こしていました。西脇さんの声を、ヘッドホンで何度も聞きました。
「ここ、ちょっと違うんよ」という言葉が、四十一本の動画のうち、九本に出てきます。
何が違うのかは、九本とも説明されていません。
その夜、わたしはホテルの窓を開けました。十月の初めで、川の匂いがしました。工場はここから見えません。
三時間ほど作業をして、ユニットバスに湯を張りました。腰から下が、砂を落としたあとのようにざらついている感じがして、それは気のせいだとわかっていましたが、二度洗いました。
教員だったころ、わたしは夜に生徒の実習レポートを読んでいました。読むと、その子ができるようになった順番がわかります。わからない子のレポートには、わからない場所が書いてあるからです。
動画には、それがありません。できる人が、できているところしか映っていません。
わたしがいま作っているのは、正解しか載っていない教材でした。それでは人は育たないと、わたしは十四年、生徒に言っていたはずでした。
最終報告 ―― 九十四ページ
十月三十日に、最終報告をしました。
出したものは、四つです。手順書が九十四ページ。動画が四十一本。判断分岐の一覧が二百三十一項目。それから、指導員制度の運用要領。
社長は、手順書を最後まで繰って、「これは、すごいですね」と言いました。
そのあとで、こう聞かれました。
「これで、技術は残りますか」
わたしは、答えられませんでした。
十秒くらい黙ってから、「残るものと、残らないものがあります」と言いました。
社長は「はい」と言いました。それで終わりました。
会議のあと、わたしは現場に寄りました。西脇さんが中子を抜いているところでした。
わたしは「ありがとうございました」と言いました。
西脇さんは、手を止めずに「おう」と言いました。
それから、こちらを見ないまま、こう言いました。
「都留さん、あれ、九十四ページもあるんですってね」
「はい」
「わしの頭の中、そんなにないよ」
笑っていました。わたしも笑いました。
帰りの電車で、その言葉の意味を考えていました。
たぶん、二つの意味がありました。書きすぎだ、という意味と、それだけのものを持っていたのか、という意味です。
どちらなのかは、聞きませんでした。
後記 ―― 九十四ページのとおりに
翌年の四月、わたしは別件でこの工場に行きました。
若い方が、手順書のとおりに中子を作っていました。二十六歳で、三年目の方です。
寸法は出ていました。見た目も、わたしにはわかりませんでした。
ただ、その日の不良率が三パーセントほど高い、と品質の担当の方が言っていました。原因は特定できていませんでした。
西脇さんは、その二ヶ月前に辞めていました。
定年より、四ヶ月早かったそうです。お母様の具合が悪くなった、という説明でした。
指導員の契約は、結ばれていませんでした。総務の方に聞いたら、「本人が、いいですと」という返事でした。
わたしは、電話をしていません。番号は、名刺にありました。
九十四ページのうち、西脇さんの担当は三十一ページです。その三十一ページは、わたしが書きました。書いた人間は、中子を一つも作れません。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。