二人でやっていた仕事を、ある月曜から一人でやることになった
十一月九日の朝、相原の席に鞄がなかった。六十万件の分析は二人ぶんそのまま残っていた――最終報告までの七週間を一人で走った谷口が、間に合わせたことをまだ喜べずにいる記録。
十一月九日、月曜。九時十四分にオフィスに着いた。相原の席に鞄がなかった。
前の週の金曜、彼は二十三時四十分まで一緒にいた。帰り際に「じゃあ月曜」と言った。私も「月曜」と言った。
谷口です。二十八歳、入社四年目。相原は同期で、この案件で初めて二人で組んだ。
アサイン ―― 六十万件
クライアントは、ある地方で電気とガスを売っている会社だった。もとはガスの会社で、電力の小売自由化のあとに電気にも出ている。
契約は合計で六十万二千件。電気が四十八万、ガスが十二万。世帯向けの小口がほとんどで、法人は一割弱。
依頼は、料金メニューと顧客別の採算を引き直すこと。きっかけは、卸電力の価格が大きく動いた年に、この会社が思っていたより深く傷んだことだった。傷んだ理由が、社内で正確には分かっていない。
チームは四人。パートナーの野々村さん、マネージャーの三雲さん、私、相原。期間は五ヶ月。
私と相原で、六十万件を分けた。私が電気、彼がガス。途中から、私が新しい料金メニューの設計、彼が既存契約の棚卸しに分かれた。
立ち上がり ―― 十四種類のうち三つ
料金メニューは十四種類あった。
そのうち三つは、新規の受付を止めていた。止めたのは五年前と七年前。止めたが、既存の契約はそのまま残っている。
相原がその三つを数えた。合計で一万九千四百件。全体の三パーセントちょっと。
問題は件数ではなかった。この三つのメニューは、燃料費の変動を料金に転嫁する部分に上限が付いていた。作ったときは顧客保護の仕組みだった。卸価格が上限を大きく超えて動いた年、その上限が全部この会社の損になった。
相原が出した数字は、一件あたり年間で一万四千円台の逆ざやだった。一万九千四百件で、二億七千万円ほど。会社全体の営業利益が二十億に届かない規模なので、これは小さくない。
「三パーセントの契約で、これだけいくんですね」と相原は言った。
私が「よく見つけたね」と言ったら、「三日かかりました」と返ってきた。彼はそういう返し方をする人だった。
三日というのは、たぶん短い。この会社の顧客管理システムには、契約中のメニュー名が文字列で入っていた。同じメニューでも、時期によって表記が三通りある。半角と全角も混ざっている。彼はそれを全部突き合わせてから数えた。
私のほうは電気だった。四十八万件を、契約年、使用量、支払方法、ガスとのセット有無で切っていく。
八月の終わりに、営業所に一度行った。窓口があって、料金の相談に来る人がいる。一時間座らせてもらった。
来たのは五人だった。そのうち三人が高齢の方で、二人は明細の見方が分からないという相談だった。一人は、七十代の女性で、「先月より三千円上がってるんだけど」と言っていた。応対した職員が、電気の使用量と気温の話をしていた。丁寧だった。二十分かかっていた。
私はそのとき、自分が作ろうとしている「六つに整理した料金メニュー」が、この窓口で説明されるものだということを、初めて具体的に想像した。想像したうえで、案の複雑さを一段下げた。移行の条件を、年齢や使用量でなく、契約年だけで切ることにした。精度は落ちる。窓口で説明できる。
その判断は、たぶん今回の案件で私がした唯一のまともな判断だった。
中間報告まで ―― 九月と十月
九月から十月にかけて、稼働はかなり上がった。
理由は二つある。一つは、データの受領が遅れたこと。顧客管理システムと、料金計算のシステムと、需給の実績が別々で、突合に想定の三倍かかった。もう一つは、中間報告の日程が、先方の役員会の都合で二週間前倒しになったことだ。
十月の私の稼働は、たぶん月に二百六十時間くらいだった。正確には数えていない。数えると気が滅入るから、途中から入力を溜めるようになった。
相原も同じくらいだったと思う。同じくらい、と書いているのは、私が確かめていないからだ。
十月の後半、彼は二回、朝の定例に遅れた。二回とも五分か十分で、謝ってすぐ入ってきた。
一度、給湯室で会ったときに、「寝れてる?」と聞いた。「寝てますよ」と言われた。それで終わりにした。
私はそのとき、中間報告まであと十日だと考えていた。終わってから話そう、と思った。中間報告が終わったら、次は最終報告があった。
中間報告は十月三十日だった。
相原が二十枚、私が二十四枚。彼のパートは、受付停止中の三メニューの損失構造だった。数字は強かった。二億七千万という額を出した瞬間に、担当役員が「これ、いつからですか」と聞いた。
相原は「五年前からです」と答えた。
「五年、誰も気づいてないってこと?」
「気づける形になっていなかった、が正確だと思います」と彼は答えた。「受付を止めた商品は、月次のレポートの対象から外れる設定になっていました」
会議室が静かになった。この一往復は、私が横で聞いていて、素直にすごいと思った。彼は詰められる場面でいちばん言葉が正確になる人だった。
会議のあと、彼はトイレに長くいた。戻ってきたときに顔が白かった。私は「お疲れ」とだけ言った。
十日後が、十一月九日だ。
十一月九日
九時十四分、鞄がない。
九時三十分の定例に、三雲さんが来て、「相原くん、しばらく休みます」と言った。それだけだった。理由は言われなかったし、私も聞かなかった。聞かなかった理由は、聞いてはいけない気がしたからだ。いま思えば、聞いてよかったのかもしれない。
九時四十分から、作業の割り振り直しの打ち合わせをした。三雲さんと二人で、二十五分。
残っていたのは、既存契約の棚卸しの後半、メニュー移行のシミュレーション、それから顧客への通知文の設計案。最終報告まで七週間だった。
三雲さんは「人を足す」と言った。実際、二週間後に二年目が一人入った。ただ、この案件のデータ構造を理解するのに二週間はかかる。実質的に、十一月の四週間は私が二人分をやることになった。
七週間
この七週間のことを、私はあまりうまく書けない。
覚えているのは断片だけだ。
十一月十二日の二十六時、シミュレーションのマクロが落ちて、二時間ぶんの計算が消えた。消えたことに気づいたのが二十八時。
十一月十九日、常駐先のビルの電気が二十二時に落ちるので、駅前のファミリーレストランに移った。ドリンクバーが三百四十円。四時間いた。店員さんに二回、水を替えてもらった。二回目のとき、「お仕事、大変ですね」と言われた。私は笑って会釈した。声を出す気力がなかっただけだが、たぶん感じのいい客に見えたと思う。
十一月二十四日、朝、電車のなかで耳鳴りがした。左だけ。降りてホームのベンチに七分座って、それから普通に出社した。七分座っているあいだ、私が考えていたのは、その日の十四時の打ち合わせに間に合うかどうかだった。耳のことは考えていない。
十二月二日、通知文の案を三雲さんに見せたら、七割赤が入った。悔しくなかった。悔しいと思う余力がなかった。
十二月十日、二年目の子に、私は一度きつい言い方をした。「それ、昨日言ったよね」と言った。言ったあとに、自分の声が思ったより低いことに驚いた。その日の夜にごめんと謝った。彼女は「大丈夫です」と言った。大丈夫ではないと思う。
十二月十四日、相原が残していったファイルを開いた。開くのを、それまで一ヶ月避けていた。彼の作業フォルダには、名前を付けたシートが四十枚あった。「棚卸_v12_これが最新」というファイルがあって、その隣に「棚卸_v13」があった。v13は途中で止まっている。止まっているのは十一月六日の金曜、二十三時二十八分の保存だった。
私はv13の続きをやった。彼の作り方は私と違って、列を右にどんどん足していく。途中から、彼がどう考えていたかが分かるようになった。分かるようになってから、作業が少し速くなった。
その週、私は初めて、彼がいないことに対して怒りに近いものを感じた。感じたことを、いまでも恥じている。恥じているが、あのとき確かにそう感じた。書いておかないと、この記録は嘘になる。
体重は、この二ヶ月で三キロ減った。減ったというより、食べる時間がずれた。夜中の二時にコンビニのおにぎりを食べて、朝は食べない。コーヒーは一日に六杯か七杯。手が少し震える日があって、それをカフェインのせいにしていた。
最終報告
十二月二十二日、最終報告。
内容は、料金メニューを十四から六に整理する案。受付停止中の三メニューについては、二年をかけて新メニューへ移行する。移行の際に不利になる顧客が四千二百件出るので、その分の激変緩和を二年間置く。それから、燃料費の変動を転嫁する部分の上限の考え方を、卸市場の変動幅から逆算して置き直す。
顧客別の採算では、契約から五年以上経っていて、かつ古いメニューに残っている層が、損失の八割を作っていた。件数では六パーセントしかない。
社長は六十歳の方で、ガス畑の人だった。報告の最後に、「うちは電気を、ガスと同じ商売だと思ってやってきたんですね」と言った。それが、この五ヶ月でいちばん本質的な一言だったと思う。
報告は九十分で、私が六十分話した。三雲さんが最後の十五分。野々村さんは冒頭と締めだけ。
終わったあと、廊下で三雲さんに「よくやった」と言われた。私は「はい」と答えた。それ以外の言葉が出てこなかった。
その日、私は十七時に帰った。この案件で、いちばん早く帰った日だった。家に着いて、風呂に入って、二十時に寝た。翌日の十時まで寝ていた。
生活 ―― 四年目の家
家は、会社から電車で二十五分のところにある1DK。家賃は十万八千円で、四年目にしては高い。二年目のときに、疲れて帰れる距離が大事だと思って引っ越した。この案件では、その判断に何度も助けられた。
年収は八百二十万円。使い道はあまりない。この五ヶ月で買ったもので覚えているのは、椅子のクッションと、加湿器と、あとは高いヘッドホンだ。ヘッドホンは深夜に作業するときに使う。音楽は聴かない。無音で使う。四万二千円した。無音のために四万二千円払ったことを、たまに思い出して笑う。
土日は、ほぼ寝ていた。十一月の週末は四回のうち三回、出た。三雲さんは「休め」と言った。休めと言われたが、進んでいないものは進んでいなかった。
母から、十一月に三回電話が来た。三回とも出ていない。折り返したのは十二月二十三日、最終報告の翌日だった。「元気?」と聞かれて、「終わったよ」と答えた。何がとは聞かれなかった。「ご飯食べてる?」と聞かれて、「食べてる」と答えた。それも嘘だった。嘘というより、質問の意味が違うことに気づいていなかった。
後記 ―― 席のこと
相原は、三ヶ月後に復職した。別の部署に移った。
一度だけ、社内ですれ違った。エレベーターホールで、彼が「谷口、あのときありがとう」と言った。私は「ううん」としか言えなかった。それきりだ。連絡は取っていない。取っていない理由を、私は自分でもうまく説明できない。
私は最終報告を間に合わせた。クライアントの評価も良かった。翌年に追加の案件も来た。それが、いちばん厄介なところだ。間に合ってしまったことで、あの七週間のやり方は、結果として正しかったことになる。
十月の給湯室で「寝れてる?」と聞いたとき、私にできたことは一つだけあった。彼の答えを信じないで、三雲さんに言うことだ。それをしなかった理由は、中間報告まで十日だったからだ。
十日というのは、あとから見ると何でもない長さだ。
いま、私はチームで四人と組んでいる。朝の定例で、全員の顔を見るようになった。見て、どうするかは決めていない。見ているだけだ。それでも、見なかったころよりはましだと思うことにしている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
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