体験記 No. 35

削減対象の中心は四十代で、私は三十九歳だった

案件地方新聞社・構造改革と要員計画の見直し
話の中心中間報告
語り手鵜飼 / 39歳・シニアマネージャー1年目
読了約8分 · 4,900字
案件の時間軸 ―― 着任から最終報告までの、ひと通り
アサイン
立ち上がり
仮説構築
中間報告
最終報告
十年で十三万部四十代が社員の三十四%

部数は二十一万、十年前は三十四万だった。固定費十八億の削減に、人を数えずに辿り着く道は最後までなかった――昇進一本目で名簿を作った鵜飼の、四十歳になる前の半年の記録。

経営会議の資料の、十四枚目だった。表題は「要員計画の考え方」。その下に、百二十という数字がある。

鵜飼です。三十九歳。この春にシニアマネージャーになった。一本目がこの案件だった。

アサイン ―― 昇進の翌週

昇進の内示が出た翌週に、パートナーの吉屋さんから連絡が来た。

「鵜飼くん、地方紙やったことある?」

ない、と答えた。「メディアは全然です」

「いいよ。中身は普通の構造改革だから」

普通の、という言い方が引っかかった。あとで、その言い方が正確だったことと、正確であることが問題だったことの両方を知る。

クライアントは、ある県の地方紙だった。県内では圧倒的なシェアを持っている。発行部数は二十一万部。十年前は三十四万部だった。

社員は六百八十人。うち編集局が二百四十人、事業局と広告局で百六十人、販売局が九十人、あとは印刷と管理部門。専売所と呼ばれる販売店が県内に百十二ある。

売上は購読料が七割、広告が二割、残りがイベントや不動産。広告収入はピーク時の四割まで落ちていた。

依頼は、五年後も黒字でいられる形を作ること。具体的には、固定費を年間十八億円落とす計画を作ることだった。

立ち上がり ―― 十八億の内訳

最初の一ヶ月で、費用を全部分解した。

印刷と用紙で削れるのが、輪転機の稼働を一系統止めることを含めて四億弱。物流と配送の見直しで二億。本社ビルのフロア集約と、支局の統廃合で一億五千万。外注費と業務委託の巻き直しで一億。

合わせて八億五千万。目標は十八億。

支局は、県内に十一あった。そのうち三つは、記者が一人で常駐している。

いちばん遠い支局に、一度だけ行った。本社から車で一時間五十分。二階建ての古い建物で、一階が事務所、二階が居住スペースになっている。常駐しているのは五十三歳の記者だった。

「ここ、閉めるんですよね」と、着いて三分で言われた。

私は「検討の対象には入っています」と答えた。それ以上のことは言えない。

その人は怒らなかった。お茶を出して、それから「町の人口、六千八百人なんですよ」と言った。「十年で千五百人減ってます。うちが撤退したら、この町のことを毎日書く人間はいなくなる」

事実だった。事実で、経済的には支局一つで年千二百万円かかる。購読世帯はこの町で千百戸。

帰りの車のなかで、私は自分がこの一時間五十分を「移動時間」として工数表に付けることを考えていた。考えている自分に気づいて、少し気持ち悪くなった。気持ち悪くなりながら、支局統廃合の案は変えなかった。変える根拠がなかったからだ。

残りの九億五千万を、人件費以外から出す方法を、私は三週間探した。探して、なかった。

正確に言うと、方法はあった。給与水準そのものを下げる。全社員の年収を平均で八パーセント落とせば届く。ただ、この会社には組合があり、過去に一度だけ賃金カットをやって、そのあと三年で若手が四十人辞めている。同じ手は使えない。

だから、人数だった。人件費で九億五千万を出すには、平均年収と社会保険料を含めた一人あたり単価から逆算して、百二十人前後になる。

その計算を、私は自分のノートパソコンで、深夜の会議室で三回やり直した。三回とも同じ答えになった。

数字を出す順番

出し方を、二週間考えた。

人数を先に出すと、議論が総量の攻防になる。百二十は多い、八十でどうだ、という話になり、根拠のない数字で決着する。決着した数字は現場で実行されない。

だから、事業の形を先に出すことにした。

五年後、この会社が何をやっているか。紙の新聞は続ける。部数は年三パーセント落ちる前提で置く。デジタルの有料会員は、いまの九千人を三万人に。イベント事業は本数を三分の二に絞って一本あたりの規模を上げる。不動産は現状維持。

その形にしたとき、各部門に何人必要か。編集局は二百四十人から百九十人。事業局は増える。販売局は九十人から六十人。管理部門は集約して二割減。

積み上げると、必要人数は五百六十人だった。いまが六百八十人。

差が百二十人。

同じ結論だが、順番が違う。この順番なら、議論は「その形が正しいか」に向かう。人数は形の結果になる。

中間報告 ―― 十四枚目

経営会議は六月の火曜、十時からだった。役員が八人。社長は六十二歳で、編集出身の方だった。

私が四十分説明して、十四枚目で人数を出した。

会議室は静かだった。誰も驚いていなかった。それが、いちばんこたえた。全員、この日が来ることを何年も前から知っていた。知っていて、誰も言い出せなかったから、私たちが呼ばれている。

最初の発言は、編集局長だった。五十五歳。

「百九十人で、いまの紙面は作れません」

私は答えを用意していた。「作れません。紙面を変える前提です」。地域面のページ数と、通信社の配信をどこまで使うかという話を、二枚使って説明した。

局長は最後まで聞いて、「分かりました」とだけ言った。分かりました、が同意でないことは、その場の全員が分かっていた。

そのあと、局長はもう一つだけ言った。

「鵜飼さん、うちの記者が一日に何本書くか、ご存じですか」

知らなかった。数字は資料に入れていたが、その数字が何を意味するかまでは分かっていなかった。

「平均で二・四本です」と局長は言った。「そのうち一本は、たいてい誰も読まない。役所の発表とか、交通事故とか。でも書かないと、次に本当のことを書くときに、誰も口をきいてくれなくなる」

私は「ありがとうございます」と答えた。その情報を、私は最終的に資料に反映していない。反映する枠がなかった。編集局の人員を百九十人にする案は、そのまま残った。

いま思うと、あれは局長が私に渡してくれた最後の材料だった。使えなかったのは、私にその材料を計画に翻訳する力がなかったからだ。

もう一つ、想定していなかった質問があった。総務担当の役員が「対象は何歳からになりますか」と聞いた。

私は「四十五歳以上を軸に置いています」と答えた。

その役員が「うち、四十代が三十四パーセントいるんですよ」と言った。

知っていた。採用が谷になった時期と、大量に採った時期の両方がこの層に来ている。この会社の人員構成の問題は、そこにほぼ集約されている。

役員は続けて、「鵜飼さん、おいくつですか」と聞いた。

「三十九です」と答えた。

「そうですか」と言われた。それだけだった。悪意はなかったと思う。ただ、その一往復のあいだ、私は自分の手のひらが濡れているのを感じていた。

募集要項 ―― 残ってほしい人ほど先に手を挙げる

七月から九月にかけて、募集の設計をやった。

対象は四十五歳以上かつ勤続十年以上、割増金は月額給与の十八ヶ月分を上限に年齢で傾斜、再就職支援会社を付ける。募集期間は三週間。

このとき私が言い続けたのは、「誰に辞めてほしいか」ではなく「誰に残ってほしいか」を先に決めてください、ということだった。

希望退職は、条件を良くするほど、市場価値の高い人から手を挙げる。デジタル部門を担う予定だった四十代のエンジニアや、広告の主力営業は、外でも仕事がある。彼らが抜けると、五年後の形そのものが成立しなくなる。

だから、残ってほしい層に対する引き止め策を同時に作った。処遇の見直しと、新事業への配置と、面談の順番。人事担当役員はこれを最後まで嫌がった。「不公平になる」と言われた。不公平です、と私は答えた。「不公平にしないと、形が残りません」

面談の期間 ―― 私は一度も人に告げていない

募集の告知は十月一日だった。

そこから三週間、社内で何が起きていたかを、私は正確には知らない。面談をやったのは人事部と各局長で、私たちは同席していない。同席させてもらえる立場でもない。

コンサルタントは、数字を出す。要件を設計する。想定問答を作る。実際に一人ひとりに向かい合うのは、その会社の人だ。

これは制度としては正しい。正しいのだが、私は自分が言い出した百二十という数字を、一度も人間に向かって言っていない。会議室で紙に書いて、役員に説明しただけだ。

三週目の金曜、人事部長から電話が来た。応募が百三十一人。目標を十一人超えた。

超えた十一人のうち、四人は残ってほしい側だった。デジタルの二人と、広告の一人と、四十七歳の校閲の方。

校閲の方の話を、あとで人事部長から聞いた。その人は面談で「自分がいなくなったら誤植が増えると思います」と言ったらしい。言ったうえで、辞めた。理由は言わなかったそうだ。

私はその話を、東京に戻る新幹線のなかで聞いた。聞いたあと、三十分くらい何も考えられなかった。窓の外は暗くて、自分の顔が映っていた。

引き止め策は作ってあった。処遇の見直しも、配置の案も、面談の順番も。校閲は、そのどのリストにも入っていなかった。私が作った「残ってほしい人」の定義が、五年後の事業の形から逆算されていたからだ。逆算すると、校閲は出てこない。紙面が減れば、必要な校閲も減る。計算としては合っている。

合っている計算のなかに、誤植が増えると思いますと言った人は入っていなかった。

生活 ―― 母が四十年読んでいる

私の実家は、その県にある。

母がその新聞を四十年購読している。案件が始まって二ヶ月目に気づいた。実家に帰ったとき、玄関にその日の朝刊が置いてあった。

母には仕事の中身を言っていない。「県の会社に出張してる」とだけ言った。嘘ではない。

出張は週三日、半年で八十泊くらいした。ホテルは駅前の同じところ。夜、部屋で人員構成の表を開いていると、胃の上のあたりが重くなる時期があった。九月がいちばんひどくて、朝食が入らない日が二週間続いた。病院には行っていない。行かなかった理由は、行くほどではないと思ったからだが、たぶん、行くと止められると思ったからでもある。

妻とは、この案件の中身をほとんど話していない。話さないほうがいい種類の話だと思っていたし、実際そうだったと思う。ただ、十月のある夜に電話で「今日どうだった」と聞かれて、私は「百三十一人」とだけ答えた。妻は何も聞き返さなかった。翌週、帰ったら冷蔵庫にプリンが二つ入っていた。そういうやり方をする人だ。

四十歳になるのは、案件が終わった二ヶ月後だった。誕生日の日、私は別の案件のキックオフにいた。夜、駅のホームで、自分がこの半年でやったことを一度整理しようとして、途中でやめた。整理すると、たぶん納得してしまう。納得してしまうと、次も同じようにやる。

後記 ―― 名前を覚えている

計画は実行された。私たちは翌年の三月に抜けた。

固定費は十八億のうち、初年度で十四億落ちた。残りは翌年に持ち越しになっている。部数の減り方は、置いた前提より少し速い。

一年半後に一度、その会社を訪ねた。別件だ。廊下で編集局長とすれ違った。局長は会釈をして、通り過ぎた。目は合った。それだけだった。冷たくもなく、温かくもなかった。たぶんそれが、この仕事に対する正当な扱いだと思う。

十一人多かった、という話を、私はときどき思い出す。多かった理由は、私の見立てが甘かったからではない。設計どおりに、条件の良い人から先に手を挙げただけだ。設計どおりに人が減って、設計どおりに残ってほしい人が四人減った。

その四人の名前を、私は覚えている。会ったことがあるのは一人だけで、あとの三人は名簿の上でしか知らない。名簿の上でしか知らない人の名前を覚えていることに、意味があるのかは分からない。

母は、まだその新聞を取っている。先月帰ったときに、朝刊が薄くなったねと言われた。私は「そうだね」と答えた。それ以上は何も言わなかった。言えることが、何一つ思いつかなかった。

ことわり

この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。

しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。

この話の翌週、あなたなら何をする?

同じ現場に立ったとき、どう動くタイプなのか。16問で当たりをつけられます。

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