「残すのは四館です」と、八行の銀行員の前で言った
借入は六十八億、債権者は八行、館は八つ。数字は三週目に出そろっていた――再生畑ばかり歩いてきた沢渡が、四館を手放す計画を八人の前で読み上げるまでの記録。
宴会場は三百人分あった。畳は張り替えたばかりで、青い匂いがした。使われたのは去年、十一日だけだった。
沢渡です。三十七歳、マネージャーになって五年目。入ってからずっと、この手の案件ばかりやっている。畳む側の仕事だ。
アサイン ―― 「八行いる」
パートナーの久住さんから電話が来たのは、前の案件の最終報告が終わった週の水曜だった。開口一番、「八行いる」と言われた。
債権者が八行、という意味だ。メインの地銀が二十九億、第二地銀が十一億、信用金庫が三つで合わせて十四億、政府系が九億、リース会社が五億。合計六十八億円。
クライアントは、同じ県内に温泉旅館を八館持っている会社だった。創業は戦後すぐ。客室は合わせて四百十二室。正社員が百八十八人、パート・アルバイトが二百四十人ほど。
「私的整理でいく」と久住さんは言った。法的整理は取引先と予約に響くから使えない。全債権者の同意を取って、金融支援を受けながら再建計画を回す。原則、一者でも同意しなければ成立しない。
「沢渡くん、旅館やったことある?」
「ホテルはあります。旅館は初めてです」
「同じじゃないよ」と久住さんは言った。実際、同じではなかった。
立ち上がり ―― 八館を歩く
最初の三週間は、ひたすら館を歩いた。
実態貸借対照表を作るためだ。帳簿に載っている資産が、いま本当にいくらの価値があるのかを引き直す。土地、建物、什器、それから会員権の預り金。この作業は机の上ではできない。実物を見て、いつ直したかを聞いて、あと何年もつかを見積もる。
一館目で、私は自分の準備不足を知った。私は稼働率と客単価とRevPARを見て来ていた。支配人が最初に見せたのは、ボイラーだった。
「これ、平成十年のです」と支配人は言った。六十三歳の方だった。「部品はもう作ってません。壊れたら、その日から風呂が沸きません」
温泉旅館の固定費の正体は、そこにあった。源泉から引く配管、循環ろ過装置、ボイラー、大浴場のタイル。客が一人も来なくても、湯は止められない。止めたら配管が傷む。
三館目の宴会場が、冒頭の三百人分だった。団体客を受けていた時代の名残で、いまの客層は二人か四人で来る。畳は三年前に張り替えていた。誰が決めたんですか、と聞いたら、「会長です」と言われた。
夜は、その旅館に泊まった。会社の経費では落ちないので、自腹で一万四千円払った。夕食は部屋出しだった。仲居さんが「お仕事ですか」と聞いてきたので、「はい」とだけ答えた。それ以上は聞かれなかった。
温泉には入らなかった。入る気になれなかったのではなく、入ったら朝まで動けなくなると思ったからだ。結局、深夜二時までノートパソコンで館別のP/Lを組んでいた。
実態BSでいちばん厄介だったのは、会員権の預り金だった。三十年前に売った施設利用権が、まだ千二百口ほど残っている。契約上は期限が来れば返す。返す原資はない。帳簿には負債として載っているが、実際に返還を求められた件数は年に十件を切っていた。
「これ、どう見ますか」と経理部長に聞かれた。五十九歳の方で、この会社に三十六年いる。
「全額、負債で見ます」と私は答えた。
「請求は来ないですよ」
「来ないことを前提にした計画は、銀行が飲みません」
部長は「そうですか」と言って、それから小さく、「うちの親父も一口持ってます」と言った。私はそれに返す言葉を持っていなかった。持っていないまま、次の資料の話をした。あとで思い返すと、あそこは黙って一拍置くべき場面だった。
仮説 ―― 三週目には分かっていた
三週間で数字が出そろった。八館のうち、営業利益が黒字なのは三館。とんとんが一館。残りの四館は、減価償却前でも赤字だった。
赤字の四館には共通点があった。客室が四十を切っていて、宴会場が大きく、駅からもインターからも遠い。バブル期に増築した棟を抱えている。
つまり、答えは三週目に出ていた。四館を手放し、四館に集中して、六十八億の借入を四十億台まで落とす。債権放棄をいくら求めるかはその後の計算だ。
分かってから、それを会議室で口に出すまでに、二ヶ月かかった。
その二ヶ月のあいだに、四館の支配人には一度ずつ会っている。案件の性質上、何を検討しているかは言えない。言えないまま、稼働の実績と要員配置と、ここ五年の設備投資を聞く。相手はだいたい察している。察していて、それでも普通に答えてくれる。
二館目の支配人は、五十一歳の女性だった。ひととおり話し終えたあとで、「うち、残らないですよね」と言われた。
「私からは申し上げられません」
「いいんです」とその人は言った。「十二月にボイラー直したんですよ。二千三百万かけて。あれ、会長が押し切ったんです。私は反対しました」
反対した記録は、稟議書に残っていた。私はそれを見ていたので、知っていますとは言わなかった。言えばこの人は少し救われたかもしれない。言わなかったのは守秘のためというより、その場で自分が優位に立つのが嫌だったからだと思う。それが正しい遠慮だったのかは、いまでも分からない。
二ヶ月 ―― 順番を作っていた
その二ヶ月で何をしていたかというと、説明の順番を作っていた。
私的整理は、内容が正しくても成立しない。八行が同時に飲まないと終わらないからだ。メインバンクは債権額が大きいぶん放棄額も大きくなるが、そのぶん再建後の取引も大きい。信用金庫三つは額が小さく、地元の付き合いで貸している。政府系は形式を重んじる。リース会社はいちばん冷たい。
利害が違う八人に、同じ紙を同じ日に見せる。だから、その前に一人ずつ会う。
メインバンクの担当は丹羽さんという方で、四十代の後半だった。三度目に会ったとき、「四館ですか、五館ですか」と聞かれた。数字は渡していないのに、当てられていた。
「四館です」
「五館にできませんか」と丹羽さんは言った。「一館、うちの支店が長いところがあるんです」
具体名は出さなかった。出さないのが作法だった。私は「その館を残す場合、他にどこを追加で畳む必要があるか、明日お持ちします」と答えた。
翌日持っていったのは、五館残す代わりに正社員の削減を二十六人上積みし、残す館の改修投資を三年後ろ倒しにする、という表だった。丹羽さんは十分ほど見て、「四館でいきましょう」と言った。
私はこのやり方を、三年目のときに当時のマネージャーから教わっている。総量で議論すると感情の総和と戦うことになるから、交換条件に置き換える。効く。効きすぎるところがある。
中間報告 ―― バンクミーティング
会議は、県庁所在地の貸会議室でやった。旅館ではやらない。従業員に見えるところでやる話ではない。
八人の銀行員と、社長の矢島さん、会長、それから顧問税理士。私と久住さん。
私が説明した。実態BSで純資産が二十二億のマイナスであること。過去五年の館別損益。四館の譲渡と、四館への集中。譲渡代金と債権放棄を組み合わせて、返済可能な水準まで借入を落とすこと。
「残すのは四館です」
その一行を読んだとき、会長が下を向いた。八十一歳の方で、四館のうち二館は自分の代で建てている。
質疑は一時間四十分あった。いちばん厳しかったのは信用金庫の一つで、「地元の雇用はどうなるんですか」と繰り返された。正しい問いだった。私が用意していた答えは、譲渡先が営業を継続する前提での雇用維持だったが、譲渡先はまだ決まっていない。決まっていないものを前提に答えるしかなかった。
リース会社の担当は、いちばん若かった。三十代の前半に見えた。彼は雇用の話には一言も乗らず、「償却資産の処分スケジュールを、四半期単位でいただけますか」とだけ言った。それが仕事だ。私は「来週お出しします」と答えた。会議のあと、久住さんが「あの人がいちばん楽だよ」と言った。そのとおりだった。要求が明確な相手は楽なのだ。楽だと感じる自分のことは、あまり考えないようにした。
社長の矢島さんは、五十四歳で、創業家の三代目だった。会議の最後に一度だけ発言した。
「私は、全部残したいと言い続けてきました。それが経営だと思っていました」
そこで少し止まって、「間違っていたと、いま思っています」と言った。
私はそれを聞いて、安堵した。安堵した自分に、少し引っかかった。
生活 ―― 服に湯の匂いがつく
この案件の四ヶ月、私は週の半分をその県で過ごした。
移動は新幹線と在来線とタクシー。旅館は駅から遠いので、タクシー代が月に八万円を超えた。経費の申請書に領収書を貼る作業を、日曜の夜にやる。
服に湯の匂いがつく。硫黄の匂いだ。クリーニングに出しても、二回目までは残る。妻に「温泉行ってきたの」と言われて、「仕事」と答えるやり取りを三回した。三回目からは何も言われなくなった。
腰が痛い。旅館の座卓で作業をするからだ。座椅子はあるが、背もたれが低い。二日目からは、部屋の隅に椅子とテーブルがある館を選んで泊まるようになった。四館にはあった。
年収は千六百万を少し超えたくらいで、五年前から三百万ほど上がっている。上がったぶんは、たぶん責任の重さではなく、この仕事を続けている年数に付いている。
家は都内で、子どもが二人いる。上が小学二年で、下が四歳。週の半分いないので、平日の朝の支度は妻がやる。日曜の夕方だけ、下の子を近所の公園に連れていく。ブランコの前で立っているあいだ、私はだいたい月曜の資料のことを考えている。考えていることは顔に出ないらしく、子どもは普通に遊んでいる。
一度だけ、上の子に「お父さんの仕事ってなに」と聞かれた。「会社を助ける仕事」と答えた。嘘ではない。ただ、助けるという言葉のなかに四十一人の異動と二十二人の退職が入っていることを、七歳に説明する言い方を私は知らなかった。
最終報告と、その後
計画は八行の同意を得て成立した。中間報告から三ヶ月半後だった。
ただ、そこまでが長かった。同意が揃わなかったのは信用金庫の一つで、理由は債権放棄の割合ではなく、放棄の順序だった。メインバンクが先に大きく削り、小口は薄く削る。理屈としては通っているが、「うちだけ後から追加を求められないという保証があるか」と聞かれた。保証はできない。できないと言うと止まる。
結局、その一行だけ、三ヶ月のあいだに七回訪ねた。七回目は理事長が同席した。私が説明したのは初回とほぼ同じ内容だった。変わったのは、七回来たという事実のほうだった。理事長は「まあ、これだけ足を運ばれてはね」と言った。分析ではなく回数で決着したことに、私は少しだけ不服だった。不服だと思った直後に、それでも決着したことに安堵していた。
四館のうち二館は、県外のホテル運営会社に譲渡された。一館は同業の同族企業へ。残りの一館は買い手がつかず、営業を止めて土地建物のまま残っている。宴会場が三百人分あった館だ。
正社員百八十八人のうち、四十一人が譲渡先に移り、二十二人が退職した。残りは四館に再配置された。
私は最終報告の翌月に別の案件に移った。実行のモニタリングは、チームの三年目が引き継いだ。
一年半後、止まっていた一館が、地元の企業に買われて日帰り温泉として再開したと聞いた。宴会場は取り壊して駐車場にしたらしい。
後記 ―― 慣れているということ
私は、この四ヶ月で一度も眠れない夜を過ごしていない。
三年目のときは眠れなかった。工場を二つ閉じる案件で、名簿を作った夜に吐いた。いまは吐かない。宴会場の畳の上に立って、青い匂いを嗅いで、「ここは十一日しか使われていない」と考えている。それだけだ。
これを成長と呼ぶのか、鈍化と呼ぶのか、私にはまだ判断がついていない。判断がつかないまま、次の案件も同じ類型を受けている。断ろうと思ったことは、正直、ない。向いているからだ。向いていることと、やっていいことは、たぶん違う。
矢島さんから年賀状が来る。二年続けて来ている。文面は印刷だが、下に一行だけ手書きがある。去年は「四館、なんとかやっています」だった。今年のは、まだ読んでいない。机の引き出しに入れたままにしてある。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。