体験記 No. 25

「あなた、途中でやめた人でしょう」と、教授は最初の五分で言った

案件学校法人・学部再編と定員充足の改善
話の中心仮説構築
語り手深水 佳奈 / 28歳・入社1年目(博士課程中退)
読了約8分 · 5,000字
案件の時間軸 ―― 着任から最終報告までの、ひと通り
アサイン
立ち上がり
仮説構築
中間報告
最終報告
定員充足率68%受講者4人の講義が31コマ

志願者が減ったのは広報のせいだ――データが取れるという理由だけで、私はその仮説から入った。壊したのは、開講科目一覧の一枚だった。元・大学院生の深水が、畳む側に回った八ヶ月の記録。

研究棟の三階は、廊下の蛍光灯が二本、切れたままだった。切れているというより、間引かれていた。壁沿いに段ボールが積んであって、いちばん上の箱に油性ペンで「紀要 1998〜」と書いてあった。

深水です。二十八歳、入社一年目。八ヶ月前まで、私は別の大学の博士課程にいた。四年目で、退学した。

この案件の話が来たとき、マネージャーの西門さんは「深水さん、大学の中の話、分かるよね」と言った。分かります、と答えた。答えてから、分かるというのが強みなのか呪いなのか、しばらく考えることになった。

アサイン ―― 五学部、充足率八十三パーセント

クライアントは、地方都市にある私立の学校法人だった。大学一つ、短大が併設で、学生は約三千四百人。五学部ある。

全体の定員充足率が八十三パーセント。うち二つの学部が六十八パーセントと七十一パーセントで、この二つが全体を引き下げていた。入学定員を割ると、補助金の交付率が下がる。授業料収入も減る。人件費比率が六十二パーセントまで上がっていた。

依頼は「学部再編の方向性の策定」だった。理事会からの依頼で、窓口は法人本部の事務局長。六十一歳の、元・入試広報課長という人だった。

チームは三人。西門さんと、二年目の轡田さんと、私。

立ち上がり ―― 取れる数字から入った

最初の三週間で、私は志願者データを全部集めた。過去八年、学部別・入試方式別の志願者数、受験者数、合格者数、入学者数。それから広報予算、オープンキャンパスの参加者数、高校訪問の件数。

きれいに揃った。揃ったので、私はそこから仮説を立てた。

充足率の低い二学部は、志願者そのものが減っている。オープンキャンパス参加者からの出願率も低い。つまり認知と接触の問題であり、広報投資の配分と、学部名称の分かりにくさに原因がある――。

西門さんは、その骨子を見て、少し黙ってから言った。「これ、深水さんが立てたいから立てた論点じゃなくて、数字が出るから立った論点じゃない?」

私は「両方だと思います」と答えた。いま思えば、これはほとんど白状に近い。

西門さんは「まあ、いいよ」と言って、そのまま進めさせてくれた。止めなかった理由を、あとで聞いたことがある。「止めても、深水さんは納得しないでしょ。自分で壊したほうが早い」と言われた。実際そうなった。そうなると分かっていて三週間使わせるのが、この人のやり方らしい。

事務局長には、初回の報告で広報の話をした。その人は熱心にうなずいた。うなずかれるたびに、私は少し安心して、少し不安になった。この会社の人がいちばん聞き慣れていて、いちばん何も変わらなかった話を、私はしているのではないか。

高校訪問の同行もさせてもらった。入試広報課の職員と二人で、県内の高校を一日四校。進路指導室で待たされる時間が平均で十八分あって、その十八分に職員の方が「うちは、もう名前で来る学校じゃないんですよ」と言った。メモには取らなかった。取らなかったのに、いちばん覚えている。

仮説が壊れる ―― 三十一コマ

四週目に、私は開講科目一覧をもらった。頼んだのは轡田さんで、私は正直、優先度の低い資料だと思っていた。

紙で三十二ページあった。学部別、学期別に、科目名と担当教員と受講者数が並んでいる。エクセルに起こすのに丸二日かかった。

起こしてから、私は自分の仮説がどうでもよくなった。

受講者が四人以下の講義が、二学部合計で三十一コマあった。専任教員一人あたりの担当科目は平均六・八コマ。開講科目の総数は、学生数が今の一・四倍だった十年前とほとんど変わっていなかった。学生は減ったのに、時間割は減っていない。

それは広報の話ではなかった。この学部は、志願者が減ったから苦しいのではなく、志願者が減っても何も畳まなかったから苦しい。

その二つは、外から見ると同じに見える。中身は全然違う。

現場 ―― 「あなた、途中でやめた人でしょう」

教員へのヒアリングは、二週間で十九人にお願いして、応じてくれたのが十二人だった。

四人目が、その学部でいちばん在籍が長い教授だった。専門は比較文学。研究室に入ると、本が壁の三面にあって、床にも積んであった。座る場所を作るのに、その人は一分ほどかけた。

私が名刺を出して、案件の趣旨を説明しはじめると、途中で遮られた。

「深水さん。あなた、途中でやめた人でしょう」

心臓が鳴った。「――どうして分かりますか」

「名刺の持ち方と、本棚の見方」と教授は言った。「入ってきたとき、うちの本棚の背表紙を左から順に読んだでしょう。あれは、研究してた人の癖だ」

私は、江戸期の廻船問屋の帳簿を読んでいました、と言った。言う必要はなかったのに、言った。

教授は「面白いところをやってたね」と言った。それから、こちらの質問には全部、丁寧に答えてくれた。開講科目が減らせない理由。教員の専門と科目の対応。非常勤の依存度。学生の出身高校の分布。

最後に、私が「受講者が少ない科目についてどう思われますか」と聞いたとき、その人は少し笑って言った。

「四人の授業がいちばんいい授業だよ。それは君も知ってるはずだ」

知っていた。私が四年間いた研究室のゼミは、いちばん多い年で五人だった。

中間報告 ―― 「参考資料」

中間報告は、まず理事会に出した。数字の反応は良かった。事務局長は「よく整理していただいた」と言い、理事長は科目数のグラフを長く見ていた。

問題はその後だった。理事会の資料は、学部教授会に「参考資料」として配られた。

配られた、で終わった。教授会は月に一度、二時間ある。その日の議事は八件で、うちの資料は七番目だった。実際に議論されたのは四十分後半の数分間で、記録には「意見交換を行った」と書かれた。

轡田さんが「これ、握りつぶされたってことですか」と聞いた。西門さんは「違う」と言った。

「握りつぶすほど関心を持たれてない。理事会に出す資料と、教授会を動かす資料は別物なんだよ。俺たちは前者しか作ってない」

理事会が動かせるのは、定員と予算と組織の器だった。動かせないのは、カリキュラムと人事だ。そちらは教授会が握っている。私が三ヶ月で覚えたのは、この法人には決裁の線が二本あって、その二本が交わる場所が制度上どこにもない、ということだった。

事務局長は、そのことをもちろん知っていた。知っていて、外部を入れた。「私が言うと、事務方が学問に口を出すという話になるので」と、その人は一度だけ、廊下で言った。私たちはそのために雇われていた。分かってはいたが、はっきり言われると、少し息が詰まった。

組み直し ―― 減らした先を書く

そこから、私は資料の作り方を変えた。二つ変えた。

一つは、学生に聞いたこと。在学生四百二十人にアンケートを取り、二十六人に面談した。志望理由の上位は、私が想定していた「学びたい分野」ではなかった。一位が「自宅から通えるから」、二位が「入試方式が合ったから」、三位が「奨学金の条件」だった。学部名称が分かりにくいという回答は、四百二十人中の九人だった。

私の最初の仮説は、ここでも間違っていた。

面談で、二年生の男子学生が言ったことをよく覚えている。「正直、ここじゃなくてもよかったんです。でも来てみたら、先生が名前を覚えててくれて」。彼はその学部の、受講者が四人の講義に出ていた。

つまり、この学部の弱点と美点は同じものだった。少人数であることは、経営上の非効率であり、学生が残る理由でもある。この二つを同じ紙に書く方法を、私は二週間考えた。考えて、完全な答えは出なかった。出せなかったので、「非効率を全部消す」のではなく「非効率をどこに集中させるか」という書き方にした。

もう一つは、「減らす」の隣に「付け替える」を書いたこと。二学部を一学部三学科に統合し、入学定員は合計で八十人減らす。減らした人件費と時間割の余力を、初年次教育の少人数化と、資格課程の再設計に付け替える。専任教員の担当科目を六・八から五・二に下げて、その差分を学生対応に回す。

この案なら、四人の授業は消える。代わりに、一年生の必修が三十人クラスから十八人クラスになる。

比較文学の教授には、この案を先に見せに行った。ずるい順番だった。西門さんに「先に見せるのは誰か、決めてから出せ」と言われて、私が選んだ。

教授はしばらく黙って、「うちの科目は、なくなるね」と言った。はい、と答えた。

「まあ、そうだろうね」とその人は言った。怒られなかった。怒られたほうが楽だった。

それから、その人は資料の後ろのほうを指した。初年次教育を十八人クラスにする、と書いたページだった。

「これ、誰がやるの」

「専任の先生方に、担当していただく前提です」

「私みたいなのが、一年生に読み書きを教えるわけだ」と教授は言った。嫌そうな声ではなかった。「昔はやってたんだよ、そういうの」

その一言が、たぶんこの案件でいちばん大きかった。私はそれをすぐには理解できなくて、研究室を出て、階段を降りて、駐車場でようやく分かった。あの人は、消えるものの話ではなく、戻ってくるものの話に反応していた。

資料を直した。統合案の一枚目を、「二学部を統合する」から「一年生に、教員がもう一度会える体制に戻す」に書き換えた。中身は一つも変えていない。西門さんは「それでいい」と言った。「たぶん、それだけの話だったんだよ、最初から」

生活 ―― 送っていないメール

一年目の私の年収は五百二十万円だった。院にいたころ、無給の年もあった。研究会の旅費を親に借りたことがある。

家賃は八万二千円。日曜の午後、洗濯機を回している間に、下書きのまま送っていないメールを開くことがある。宛先は指導教員で、件名は「ご報告」。本文は三行書いて、消して、また三行書いた。四回書き直して、まだ送っていない。

出張は月に八日ほどあった。新幹線と在来線を乗り継いで二時間半。行きは資料を読んで、帰りは寝る。駅の売店で買う六個入りのバウムクーヘンを、なぜか毎回買っていた。オフィスの共有スペースに置くと、翌朝には空になっている。

同期は十四人いる。飲みに行くと、みんな案件の話をする。私は自分の案件の話をあまりしない。大学を畳む仕事をしていますと言うと、たぶん一瞬、場が止まる。止まるのが嫌なのか、止まらないのが嫌なのか、自分でも分からない。

最終報告と、その後

最終報告は八ヶ月目だった。統合案は理事会で承認され、教授会でも、賛成多数で受け入れられた。全会一致ではなかった。

再編の実施は三年後。それまでに、現在の在学生は卒業する。誰も途中で放り出されないように組んだ工程だった。

半年後、事務局長から連絡があった。統合の準備委員会が立ち上がって、比較文学の教授がその委員長になったという。私はそのメールを二回読んだ。

理由は書かれていなかった。想像はできるが、確かめる立場ではない。

後記 ―― 四人の授業のこと

私は、四人の授業がいちばんいい授業だと知っている。知っていて、それを三十一コマ消す案を書いた。書けたのは、私が数字に強いからでも、割り切れる性格だからでもない。私はもう、そちら側の人間ではないからだ。

途中でやめた人でしょう、と言われたとき、否定できなかったのがすべてだった。四年間かけて読んだ帳簿は、いま何の役にも立っていない。役に立っていないと言い切れるほど、はっきり切り離せてもいない。

学部の充足率は、再編後の見込みで九十四パーセントになる予定だ。予定は予定で、十八歳人口はこれからも減る。三年後にこの案が正しかったかどうかを、私はたぶん確かめに行かない。

研究棟の三階の蛍光灯は、最後に行ったときも二本切れていた。段ボールの紀要は、一九九八年から二〇一一年までで止まっていた。それ以降は電子化されたのだと、あとで聞いた。

ことわり

この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。

しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。

この話の翌週、あなたなら何をする?

同じ現場に立ったとき、どう動くタイプなのか。16問で当たりをつけられます。

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