会長は最終報告のあと「面白かった」と言った。それが結論だった
正しい移行案を作れば承継は進む、と思っていた。決めていたのは組織図ではなく、家の中の順番だった――元銀行員の篠塚が、創業81年の会社で過ごした四ヶ月の記録。
応接室の壁に、写真が12枚かかっていた。竣工写真だ。左端が昭和のもので、右へ行くほど新しくなる。いちばん右は5年前の、市民ホールだった。写真の下には金属のプレートがあって、竣工年と工事名が彫られている。私はその部屋で待たされるたびに、左から右へ、12枚を順番に見た。4ヶ月で、たぶん20回は見た。
待たされる時間は、短くて5分、長いと25分だった。ソファが深くて、背中がまっすぐにならない。浅く座り直すと、今度は膝の角度が決まらない。25分待った日は、帰りの新幹線で腰が痛かった。他人の家に上がるときの座り方というものを、私はこの4ヶ月で覚えた。
篠塚です。34歳、中途で入って2年目。前職は地方銀行で、8年、法人融資をやっていた。転職の理由を面接で聞かれたとき、私は「もっと手前で関わりたい」と答えた。融資は、会社が何かを決めたあとに来る。決める前の部屋に入りたかった。
入ってみて分かったのは、決める前の部屋にも、たいてい先客がいるということだった。
アサイン ―― 依頼者と、受益者
クライアントは、創業81年の地方建設会社。売上190億円、従業員320人。公共工事が6割、民間が4割。地元では名前の通った会社だ。
依頼は「事業承継に向けた経営体制の再構築」。会長が79歳、専務が52歳で会長の長男。この専務に社長を譲るための準備をする、というのが表向きの内容だった。
初回の打ち合わせは、会長と専務と、常務の三宅野さんが出てきた。常務は親族ではない。40年勤めた、いわゆる番頭だ。
役員は6人で、うち4人が親族だった。会長、専務、専務の弟にあたる取締役、そして会長の甥にあたる取締役。残り2人が三宅野さんと、経理担当の役員。
窓口は専務になった。ただし、契約書に判を押したのは会長だった。フィーを払うのは会長で、この案件で立場が良くなるのは専務だ。依頼者と受益者が違う。私はこの構図を、最初は「よくあること」として処理した。処理しきれなかったのは、4ヶ月目だった。
チームは、マネージャーの倉田さんと私の2人。小さい案件だ。倉田さんは月に4日しか来られなかったので、実質は私が常駐に近い形で回した。
立ち上がり ―― 誰が何を決めているのか
最初の3週間で、私は組織と決裁のルールを整理した。銀行時代の癖で、まず稟議規程と組織図と、過去3年の取締役会議事録を読ませてもらった。
書いてあることは、まともだった。取締役会は月1回。1億円以上の投資は取締役会決議。工事の受注は、5億円以上が社長決裁。規程としては、地方の中堅企業として整っている方だ。
整っている規程と、実際が違うことは、銀行にいたときから知っている。だから、実際を聞いて回った。
分かったのは、この会社の意思決定が、月曜の朝の「打ち合わせ」で起きているということだった。会長と専務と三宅野さんの3人が、会長室で40分ほど話す。議事録はない。取締役会は、そこで決まったことを追認する場だった。
もう一つ分かったことがある。会長の弟にあたる人が、10年前に会社を出ていた。理由は、誰も詳しく話さなかった。専務は「叔父は、まあ、方針が合わなくて」とだけ言った。三宅野さんは、その話題になると黙った。
私はその「出ていった弟」を、資料に一度も書かなかった。書けなかった、というのが正確だ。事実として何があったのか確認できないことを、他人の家の話として書く胆力が、私にはなかった。いま思えば、その一件がこの案件の全部を説明していたかもしれない。
仮説 ―― 三年の移行計画
2ヶ月目に、私は移行案を作った。
骨子は3つ。一つ、月曜の朝の打ち合わせを、経営会議として正式な会議体にする。構成員に三宅野さんと経理役員を入れ、議事録を残す。二つ、専務が社長になる時期を明示し、その前後で決裁権限を段階的に移す。3年計画で、1年目は5億円以上を専務決裁に、2年目は投資判断を専務に、3年目に代表権を移す。三つ、親族役員4人のうち2人について、担当領域と責任を文書で定義する。定義がないまま、なんとなく現場に口を出している状態を整理する。
倉田さんに見せたら、「筋はいい」と言われた。それから「これ、誰に最初に見せる?」と聞かれた。
「専務です。窓口ですから」
倉田さんは「そうだよね」と言った。そうだよね、には少し間があった。あの間の意味を、私は2ヶ月後に理解した。
中間報告 ―― 良い会議だった、はずだった
3ヶ月目の中間報告は、会長、専務、三宅野さん、経理役員の4人に対して、90分。他の親族役員2人は「現場が忙しいので」と欠席した。欠席の連絡は前日の夕方に来た。
説明は私がやった。会長は最初の30分、ほとんど資料を見ずに私の顔を見ていた。79歳とは思えない目つきだった。銀行にいたとき、私はこういう目つきの経営者に何度も会っている。数字を見ない代わりに、人を見る人だ。
説明が終わって、会長が最初に言ったのは「篠塚さんは、おいくつ」だった。34ですと答えた。「うちの孫と近いね」と会長は言った。それだけだった。
質問らしい質問は、三宅野さんから2つ出た。経営会議の頻度と、議事録を誰が書くか。実務的で、良い質問だった。専務は、ほとんど喋らなかった。
会議のあと、専務が廊下で「良かったです」と言った。私は手応えを感じた。感じたことを、その日の夜、倉田さんにメッセージで送った。倉田さんからの返信は「会長、何か言ってた?」だけだった。
気づき ―― 順番の問題
4ヶ月目の頭に、三宅野さんに呼ばれた。会社の近くの、蕎麦屋だった。昼で、二人とも天ぷらそばを頼んだ。1,100円。三宅野さんが払った。
三宅野さんは、そばが来る前に言った。
「篠塚さん。あの資料、会長は専務から先に見せられたと思っていますよ」
「はい。窓口が専務でしたので」
「そこなんです」と三宅野さんは言った。「この会社では、新しい話は会長に最初に上がるんです。40年、そうでした。専務が先に知っていて、あとから会長に説明する。会長にとって、それは内容の話じゃないんです」
私は、そばが伸びるまで何も言えなかった。
「篠塚さんの案は、私はいいと思います」と三宅野さんは続けた。「経営会議を作るのも、権限を段階で渡すのも、正しい。ただ、正しい案を専務が持ってくると、会長には『追い出される準備が始まった』に見える。順番の問題です」
「どうすればよかったんでしょうか」
「最初に、会長に単独で時間をもらうことです。中身を決める前に。『どういう会社にして渡したいですか』と聞くだけでいい。それを聞いた事実が、あとで効くんです」
その週、専務と2人で話す機会があった。工事現場から戻ってきた専務は、作業着のままだった。専務は「父は、たぶん私に譲る気があるんです」と言った。あるんです、という言い方が引っかかった。「ただ、私が言い出すと、譲らされることになるので」。52歳の人が、79歳の父に対して、その順番を気にしている。会社の話ではなかった。私が4ヶ月かけて設計していたのは、ずっと会社の話のほうだった。
三宅野さんは、40年この会社にいる人だ。この人が案件の最初に私にそれを教えてくれなかった理由を、私はその場で聞かなかった。たぶん、聞かれなかったから言わなかっただけだ。私は自分がカウンターパートに「誰から聞くべきか」を一度も相談していなかったことに、そのとき気づいた。銀行では、順番は身体で覚えていた。融資の話を専務から先に聞いたら、後で頭取に説明できない。同じことだったのに、業界が変わった途端に忘れていた。
立て直し ―― 四週間でできたこと
残り4週間で、私はやり方を変えた。
会長に、単独で時間をもらった。2回。1回目は40分、2回目は1時間半。話したのは移行計画のことではなく、この会社の話だった。会長が32歳で社長になったときのこと。当時の売上が18億だったこと。バブルのあと、5年間、賞与を出せなかったこと。市民ホールの入札で、大手と競って取ったときのこと。
2回目のとき、会長は自分でお茶を淹れた。急須から2つの湯呑みに注いで、片方を私の前に置いた。湯呑みは縁が少し欠けていた。会長は「これ、創業のときから使っとるやつでね」と言って、それから「嘘や、20年くらいや」と笑った。会議室の机には、細い傷が何本も入っていた。図面を広げて鉛筆で線を引いていた時代の傷だと、あとで三宅野さんに聞いた。
2回目の終わりに、会長は「篠塚さんは、うちの数字はよう見とるね」と言った。それから、「あの三年の計画な。あれ、誰が考えたんかね」と聞いた。
「私です」
「専務やないんか」
「私です。専務には、作ってから相談しました」
会長は「ふうん」と言った。そのあと何も言わなかった。私は、その「ふうん」が、この4ヶ月でいちばん重要な音だったと思っている。
最終報告の資料は、内容をほとんど変えなかった。変えたのは、構成だった。1章を「会長が81年の会社をどう残そうとしてきたか」にした。ヒアリングした内容を、そのまま8ページにした。承継の設計は3章に下げた。
倉田さんは「篠塚、これ、コンサルの資料じゃないぞ」と言った。「はい」と答えた。倉田さんは少し考えて、「まあ、いいか」と言った。
最終報告 ―― 面白かった
最終報告は、親族役員2人を含めた6人全員が出た。今度は誰も欠席しなかった。欠席させないための根回しを、三宅野さんがやってくれた。
90分の説明が終わって、会長は資料を閉じた。閉じてから、こう言った。
「面白かった」
それだけだった。専務が「父さん、それで」と言いかけて、やめた。三宅野さんが「では、経営会議の件は、来月から試しに」と引き取った。会長は「ああ」と言った。
その日、代表権の移譲時期は決まらなかった。3年計画の1年目に置いた「5億円以上を専務決裁」も、「もう少し様子を見て」となった。決まったのは、月曜の朝の打ち合わせを経営会議と呼ぶこと、議事録を三宅野さんの部下が書くこと、その2つだけだった。
帰りのタクシーで、倉田さんが「まあ、こんなもんだよ」と言った。私は「はい」と答えた。答えながら、4ヶ月で決まったことを指で数えていた。2つだった。
生活 ―― 土曜の午後の電話
この案件の間、私は月に2回、実家に電話をかけるようになった。父は67で、まだ働いている。小さな設備工事の会社で、社員は4人だ。
承継の話は、一度もしていない。したことがない。私が銀行を辞めてコンサルに移ったとき、父は「そうか」としか言わなかった。会長の「ふうん」と、たぶん同じ種類の音だ。
土曜の午後にかけると、父はだいたいテレビをつけたまま出る。用件は特にない。5分で切る。5分の電話を、私は自分のためにかけている。他人の家の承継を4ヶ月見ていると、自分の家のことが少しだけ怖くなる。怖いから、何も聞かないまま電話をかける。
後記 ―― 二年後の名刺
案件が終わって1年半後、三宅野さんから封書が届いた。中に、名刺が1枚入っていた。専務の名刺で、肩書が代表取締役社長になっていた。
添えられた便箋には、経営会議が毎週続いていること、議事録が72回ぶん溜まったこと、そして会長が会長のまま出社していること、が書かれていた。最後に「篠塚さんの資料の1章を、会長は何度か読み返しておられました」とあった。
私が作った3年計画は、たぶん1行も実行されていない。代替わりは、計画とは別の道筋で起きた。何が効いたのかは分からない。72回の議事録かもしれないし、会長の体調かもしれないし、単に時間かもしれない。
外部の人間ができるのは、家族が家族の外で話す場を用意することだけかもしれない、といまは思う。思っているが、その結論を報告書に書いていたら、たぶんフィーは取れなかった。取れないから、私たちは3年計画を書く。書いたものが実行されなくても、書いたことで会議が1つできる。この仕事の効き方は、そういう遠回りをしている気がする。
応接室の写真は、いまは13枚になっているらしい。三宅野さんの便箋の最後に、そう書いてあった。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。