現地で正しかったことは、本社の会議室では正しくなかった
現地の厨房は42度で、本社の会議室は23度だった。その19度の差が、そのまま提案の落差になった――柏木が、市場参入PJの入口から中間報告、そして三年後までを綴った記録。
本社の会議室は、23度だった。壁の温度計にそう出ていた。僕は入り口に近い席で、ノートPCを開いて、8日前まで自分が立っていた厨房のことを考えていた。あそこは42度あった。温度計ではなく、現地の工場長が「今日は42度」と言ったのを、そのまま信じた数字だ。
柏木です、と名乗る機会は、この案件では多かった。入社9年目、32歳。シニアコンサルタント。同期の3人は、去年か今年、マネージャーになった。僕は2回、昇進を見送られている。理由は毎回同じで、「一人で案件を取り切る絵が、まだ見えない」だった。今回のPJで海外の市場参入をリードするのは、その絵を見せる機会だと、上からも下からも思われていた。思われていることを、僕も分かっていた。
アサイン ―― 同期がマネージャーになった年
クライアントは、創業61年の業務用厨房機器メーカー。フライヤーやスチームコンベクションオーブンを作っていて、年商は230億円。国内の外食向けでは、それなりの地位がある。ただ、国内市場は店舗数が縮んでいて、伸びしろがない。海外売上比率は4%しかなかった。
社長は3代目で、50代前半。就任のときに「海外で3割」と社内に宣言していた。宣言してから、4年経っていた。4年で4%から4%だった。焦っていたと思う。
キックオフのあと、パートナーの宇津木さんが「柏木、これは取り切ってこい」と言った。取り切る、というのは、この会社の言い方で、要するに、自分で回して自分で終わらせろ、という意味だ。マネージャーの仕事を、マネージャーでない僕がやる。うまくいけば昇進する。うまくいかなければ、3回目の見送りになる。それだけの話だった。
立ち上がり ―― 42度の厨房で、機械を触る
対象国は、デスクトップの調査で3カ国に絞ってから、現地に行った。ベトナムに12日間。市場規模、外食チェーンの出店ペース、輸入関税、規制、競合。数字は日本で全部見ていた。見ていたが、行かないと分からないことがあった。
3日目に、ホーチミンの、地場の外食チェーンの中央キッチンを見せてもらった。従業員が200人ほどいる工場で、フライヤーが12台並んでいた。うち9台が中国メーカー、3台が韓国メーカーだった。日系は、1台もない。
工場長に「日系は使わないんですか」と聞いたら、通訳を挟んで、こう返ってきた。「壊れないのは知ってる。でも壊れたとき、部品が2週間来ない」。中国製は3日で来るらしい。値段は3分の1で、寿命は半分。それでも、3日と2週間の差のほうが、彼らには重かった。
僕はその厨房で1時間半、機械を触っていた。42度で、湿度が高くて、シャツが背中に張り付いた。フライヤーの油の温度計を覗き込んで、蓋の開閉を何度かして、工場長に「これ、掃除は何分かかりますか」と聞いた。「25分」。日本のクライアントの製品は、たしか12分で掃除できるのが売りだった。倍の時間をかけて、彼らはそれを選んでいる。
その夜、屋台でフォーを食べた。40,000ドン。日本円で200円台だ。汗が引かないまま、僕は「これは行ける」と思っていた。品質で勝てる余地がある。アフターサービスの体制さえ作れれば。あの確信は、たぶん、42度の厨房の中でできたものだった。それが後で効いてくる。
出張という、12日間の生活
海外出張の生活は、想像されるほど華やかではない。朝7時にホテルの朝食を10分で食べて、8時に通訳と合流して、日中は視察かインタビュー。夕方にホテルに戻って、日本とのオンライン会議が19時から。日本時間は21時だから、向こうも夜だ。会議が終わるのが21時か22時で、そこから議事メモとメモ起こしをやる。寝るのは1時を回る。
通訳は、日系企業の駐在経験がある現地の方に、1日あたり定額でお願いしていた。この人の質が、案件の質をほぼ決める。工場長が「壊れたとき、部品が2週間来ない」と言ったあの一言も、通訳の人が「これ、たぶん本音です」と補足してくれたから、僕はノートに赤で囲った。補足がなければ、ただの苦情として流していたかもしれない。
5日目に、腹を壊した。屋台のせいなのか、ホテルの氷なのか、単に疲れなのかは分からない。午前の視察を1件飛ばして、部屋のトイレと往復した。エアコンの効きが強すぎる部屋で、汗をかいた身体が冷えていくのが分かった。午後の視察には出た。出ないという選択肢は、12日間しかない日程の中には、なかった。
その夜のオンライン会議で、宇津木さんに「柏木、顔色悪いぞ」と言われた。画面越しに分かるものらしい。「大丈夫です」と答えた。答えてから、9年目にもなって、まだ大丈夫ですと言ってしまう自分に、少しうんざりした。大丈夫ですと言う人間は、たぶん、一人で案件を取り切る絵が見えない人間だ。そういうところなのかもしれない、と思った。
同期のことは、正直、毎日は考えていない。ただ、この出張のあいだに1回だけ、社内のチャットで、同期のマネージャーが自分のチームの成果を共有しているのを見た。ホーチミンのホテルの、狭いデスクで見た。「いいね」を押した。押してから、押した自分の指を、しばらく見ていた。
仮説 ―― 合弁を推したくなった理由
参入形態は、4つ比較した。①販売代理店を起用する、②現地に販売会社を作る、③現地企業と合弁を組む、④現地企業を買う。
僕が推したのは、③の合弁だった。理由は理屈としてはまともだ。この市場で効くのはアフターサービスの網で、それをゼロから作ると時間がかかりすぎる。既に修理の技術者を抱えている現地の商社と組めば、初日から網が使える。
ただ、正直に書くと、理屈より先に、人がいた。合弁の相手として想定していたのは、従業員80人ほどの厨房機器商社で、その社長のミンさんに、僕は3回会っていた。40代半ばの人で、自分でも修理に出る。2回目に会ったとき、彼は自分の手を見せた。指の関節に、火傷の跡がいくつもあった。「若いころ、全部自分でやってたから」と笑っていた。
僕は、その手が好きだった。この人と組めば、うまくいくと思った。思ったことを、僕はそのまま資料に書かなかった。書けるはずがない。代わりに、彼の会社の技術者数、対応エリア、既存の取引先数を並べて、他の候補2社と比較する表を作った。表の上では、ミンさんの会社が総合点で1位だった。
その表を作るとき、僕は評価項目を7つ置いた。うち5つで、ミンさんの会社が最高点だった。あとから見ると、その7項目の選び方自体が、少し寄っていた。財務の健全性と、他社製品の取扱状況、という2項目を、僕は「情報が取れないから」という理由で、参考扱いにしていた。取れなかったのではなく、取りにいく段取りを組まなかった。
中間報告 ―― 本社の会議室は、23度だった
中間報告は、帰国の8日後。役員6人に対して、持ち時間は45分だった。
僕は最初の10分を、現地の話に使った。42度の厨房、12台のフライヤー、3日と2週間、25分の清掃時間。伝わっている手応えがあった。社長は身を乗り出して聞いていた。
問題は、そのあとだった。合弁案の5カ年P/Lを出したところで、財務担当の常務が資料をめくる手を止めた。
「柏木さん、合弁の出資はいくらですか」
「初期で、6億円を想定しています」
「回収は」
「7年目です」
常務は、それ以上ほとんど何も言わなかった。代わりに、社長の方を見た。社長は、少し黙ってから、「7年か」と言った。それだけだった。議論は、そこから7分で終わった。7分というのは、僕が後で議事録を見て数えた数字だ。
否決の理由は、資料には書かれない。あとで先方の経営企画の部長が、廊下で教えてくれた。「うち、5年前に別の国で合弁やって、失敗してるんですよ。持分の引き取りで揉めて、撤退に2年かかった」。僕は、それを知らなかった。VDRのような開示の仕組みがある案件ではないし、誰も言わなかった。聞かなかった僕の責任だ、と言われれば、その通りだと思う。
その夜、僕はオフィスで、比較表の7項目のうち、参考扱いにしていた2つを、真面目に調べ直した。ミンさんの会社の取扱ブランドの一覧を、現地の同僚に頼んで集めてもらった。彼の会社は、既に中国メーカー2社の代理店をやっていた。表に載せていなかった事実だ。載せなかったのではなく、確かめていなかった。
最終報告 ―― 慎重案が、通る
最終提案は、①の代理店起用に、②の販売会社設立を3年目のオプションとして接続する、という形になった。初期投資は6億から8,000万に落ちた。回収は3年目。撤退するときは、契約を切ればいい。
数字は、たしかに良くなった。良くなったのは数字で、事業の中身は薄くなった。代理店経由では、アフターサービスの品質を自社では握れない。3日と2週間の差を埋めるという、僕が42度の厨房で見つけたいちばん大事な論点は、「代理店に部品在庫の保有を要請する」という一行に縮んだ。要請する、というのは、できないという意味とほとんど同じだ。
最終報告のあと、社長は「現実的でいい」と言った。僕は「ありがとうございます」と答えた。その日の帰り、駅の階段を降りながら、自分の脚が重いことに気づいた。出張から2ヶ月経っても、腹の調子がまだ戻っていなかった。
昇進は、その期も見送られた。宇津木さんの評価コメントには「クライアントの過去の失敗経験を早期に把握できていれば、提案の設計が変わった」と書いてあった。正確な指摘だった。正確すぎて、反論する言葉が出なかった。
後記 ―― 三年後、代理店の棚
3年後、別件でホーチミンに行く機会があった。空港からの道が、少しきれいになっていた。
半日空いたので、クライアントの代理店になった会社のショールームを、客のふりをして覗いた。フライヤーが並んでいた。日本のクライアントの製品が、いちばん手前にあった。その奥に、中国メーカーの製品も同じ数だけ並んでいた。壁の掲示に、修理の受付から訪問までの目安日数が書いてあった。「3〜10日」。日本製だけが遅いのか、全部そうなのかは、書いていなかった。
ミンさんの会社の名前は、その代理店ではなかった。合弁は組まれなかったので、当然といえば当然だ。彼が今どうしているかは、知らない。連絡先は交換したまま、一度も使っていない。
売上は、聞いた話では、悪くないらしい。海外比率は4%から6%になった。社長が宣言した3割には、遠い。先方の経営企画の部長とは、いまも年賀状のやりとりがある。去年の余白に「そろそろ販売会社の話を再開したいです」と手書きで添えてあった。3年目のオプションとして僕が接続しておいた、あの一行のことだ。忘れられてはいなかった。忘れられていなかったことを、僕は素直に喜べばよかったのだと思う。実際には、6億円と7年を諦めた代わりに、3年待って8,000万円の話をしている、という事実の方が先に頭に来た。ただ、あの合弁案が通っていたら6億円が7年拘束されて、その間に別の国の話は一つも動かなかっただろう、というのも、たぶん本当だ。だから僕の案が正しかったとは、いまも言えない。
言えないのだが、あの42度の厨房で工場長が「壊れたとき、部品が2週間来ない」と言った、あの一言だけは、いまだにどの資料にも回収されていない気がしている。僕はそれを本社の会議室に持ち帰って、23度の空気の中で、7分で失った。翻訳の仕方を、僕はまだ知らない。
マネージャーには、その次の期に上がった。3回目で通った。通ってみると、今度は自分が、出張から帰ってきた誰かの熱を、23度の会議室で聞く側になっている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。