「下がるのは43人です」と、自分の声で言った日
制度は正しかった。原資も中立で、移行措置も三年ある。それでも名簿の3行目で手が止まった――中川が、人事制度改革PJの入口から説明会、そして一年後までを綴った記録。
会議室のパイプ椅子を、私は78脚並べた。説明会は14時から。まだ9時40分で、誰も来ていない。前の晩に印刷した資料が、後ろの長机に4つの山になって積んである。表紙には「新人事制度のご説明」とだけあって、私たちの会社の名前はどこにも入っていない。入れないでほしい、と人事部長に言われたからだ。「外から言われて変えた、という絵にはしたくないんですよ」。もっともだと思った。私たちは、この部屋にいないことになっている。
中川です、と名乗る場面が、この案件はほとんどなかった。入社8年目のシニアコンサルタント。組織人事の領域しかやってこなかった。同期には「中川は人事屋だからな」と言われる。褒められているのか、狭いと言われているのか、8年経ってもまだ判断がついていない。
アサイン ―― また人事か、と思った
クライアントは、創業68年の中堅化学メーカー。樹脂の添加剤を作っていて、工場は3拠点、従業員1,240人。売上は横ばいで、利益はじりじり落ちている。年功で積み上がった人件費が重い、という典型的な相談だった。50代前半の社員が全体の23%を占めていて、その層の平均年収が、30代後半の層より210万円高い。仕事の中身は、ほとんど変わらないのに。
アサインの連絡はチャットではなく、パートナーの矢島さんからの内線だった。「中川、化学の人事、入れる? 等級から報酬まで一気通貫」。私は自分のデスクで、その電話を受けながら、また人事か、と思った。思ってから、人事しかやってこなかったのは自分だ、と思い直した。専門を持つというのは、選ばれ続けることと、それ以外から呼ばれなくなることが、同じ一つの現象だという意味だった。
初回の役員会で、社長は「若手が報われる会社にしたい」と言った。きれいな言葉だった。その横で、人事部長がノートに何かを書きつけていた。あとで分かったが、そこには具体的な人の名前が並んでいた。この会社の人事部長は、制度を語るとき、いつも人の顔から入る人だった。私はその癖を、はじめは非効率だと思っていた。
立ち上がり ―― 等級定義より先に、人の顔が出てくる
最初の6週間は、ひたすら聞く仕事だった。役員、部長、課長、主任、若手。3拠点を回って、41人にインタビューした。1人60分、多い日は5本。夕方には声が枯れて、駅前のドラッグストアでのど飴を買うのが習慣になった。
第二工場の品質保証で、田淵さんという主任に話を聞いたのは、3週目の木曜だった。55歳、勤続33年。約束の時間より10分早く会議室に来ていて、A4の紙を1枚持っていた。そこには、その部署の業務が工程順に手書きで整理してあった。「聞かれることを、こっちで想像して書いてきました」と言われた。頼んでいない。
田淵さんの話は、この案件で聞いたなかで、いちばん精度が高かった。誰がどの工程を持っていて、そのうち何が属人化していて、どこが引き継げていないか。ご自身の仕事についても「私がやってる検査の判定は、正直、マニュアル化できます。していないだけです」と、あっさり言った。自分の価値を下げる方向の発言を、この人は迷わずした。私はノートの余白に「田淵さん◎」と書いた。◎は、私が「この人の話は本当だ」と思ったときの印だ。41人のうち、◎は6人しかつかなかった。
生活は、想像どおり削れた。工場のある町までは、片道2時間半。朝5時50分の電車に乗って、帰りは22時を回る。家賃13万8千円の部屋には、寝に帰るだけになった。8年目にもなると年収は同世代の倍近くあって、でも使い道は、タクシーと、コンビニと、たまに惰性で予約する美容室しかない。田淵さんの年収は、この会社の等級表からおよそ推定できた。私の方が、少し高かった。その事実に気づいた夜、自分でも意外なくらい落ち着かなくて、しばらく天井を見ていた。
設計 ―― 「原資中立」という言葉の冷たさ
制度設計そのものは、教科書どおりに進んだ。職能資格から役割等級へ。7等級を5等級に圧縮し、各等級に報酬レンジを設定して、ミッドポイントを市場水準に合わせる。評価は目標管理と行動評価の二軸。ここまでは、私が過去に何度もやってきた形だった。
問題は、移行の計算をした瞬間に起きた。新しい報酬テーブルに現在の社員1,240人を当てはめると、レンジの上限を超える人が出る。つまり、下がる人が出る。エクセルの計算式を走らせて、条件付き書式で赤くなったセルの数を数えた。43人だった。最大で、年収の11.4%。金額にすると、いちばん大きい人で87万円。
「原資中立」という言葉がある。制度改定の前後で人件費の総額を変えない、という設計思想で、経営に説明するときの魔法の言葉だ。総額が変わらないということは、上がる人がいるぶん、必ず下がる人がいるということでもある。8年やっていて、私はこの言葉を何百回も使ってきた。使うたびに、後半の意味を、口に出さずに済ませてきた。
私は43人のリストを、五十音順に並べ替えた。並べ替える必要は、まったくなかった。処理としては無意味だ。それでもソートボタンを押したのは、たぶん、名簿の形にしたかったからだと思う。個票ではなく、名簿。上から3行目に、田淵さんがいた。
移行措置は、調整給を3年と置いた。1年目は差額の全額、2年目は3分の2、3年目は3分の1を補填して、4年目に新しい水準になる。相場としては、標準的だ。人事部長に見せると、少し黙ってから「3年ですか」と言った。「5年にすると、その5年間、制度が二重に走ります。現場が新しい制度を信じません」と私は答えた。これは本当のことだ。今でも正しいと思っている。ただ、そう言い切ったとき、自分の声がいつもより少し速かったことも、覚えている。
中間報告と、労使協議の三時間
中間報告は、9月の第2水曜だった。前日の夜、矢島さんのレビューが入った。私は等級定義と報酬レンジの説明に18枚を割いていて、矢島さんはその18枚を3枚に減らした上で、最後にスライドを1枚足せと言った。「で、これは誰の痛みですか、という1枚だ」。
私は、それを作りたくなかった。作れば、議論がそこに集中する。せっかく整合した制度の全体像が、43人の話に引きずられる。そう説明したら、矢島さんは画面の向こうで少し笑って、「引きずられるんじゃなくて、そこが本体なんだよ」と言った。「中川の資料はいつも綺麗なんだけど、痛いところが後ろのAppendixに畳んである。役員は畳んであるものは開かない。開かないまま決裁して、あとで現場から刺されるのは人事部長だ」。
深夜1時過ぎに、私はその1枚を作った。「新制度移行時の影響分布」という、ずいぶん柔らかいタイトルをつけた。ヒストグラムを置いて、右側の赤い棒に43という数字を添えた。作りながら、自分がタイトルで逃げていることに気づいていた。気づいていて、直さなかった。
中間報告の場で、その1枚は3分だけ議論された。専務が「調整給の総額は」と聞いて、私が「3年累計で約4,100万円です」と答えて、それで終わった。人の話が、金額に変換された瞬間に議論が閉じるのを、私は何度も見てきた。人件費の話は、金額に直すと終わる。直さないと終わらない。だから私たちは直す。
その2週間後、労働組合との協議に、私はオブザーバーとして同席した。3時間かかった。組合の書記長は50代の人で、資料の余白にびっしりメモを取りながら、質問は5つしかしなかった。そのうち4つが、調整給の期間についてだった。「3年の根拠は何ですか」と聞かれて、人事部長が答えに詰まった。私はメモを書いて渡した。「他社事例では2〜5年、中央値3年」。人事部長はそれを読み上げた。書記長は「中央値ですか」とだけ言って、ペンを置いた。
私は、その「中央値ですか」の言い方を、今でもときどき思い出す。責める調子ではなかった。ただ、根拠が他社の分布であって、この会社の43人の生活ではないことを、その人は正確に理解していた。理解した上で、それ以上は追及しなかった。追及しても3年は変わらないと知っていたのだと思う。協議は「継続協議」という形で、実質的には受け入れで終わった。
会議室を出たあと、廊下の窓が開いていて、工場の方から樹脂を焼く独特のにおいがした。少し甘くて、少し焦げたにおい。私はそれを、この会社の記憶としていちばん強く覚えている。制度でも、数字でもなく、においだった。
最終報告と説明会 ―― 手を挙げたのは、別の人だった
最終報告は、役員会で30分だった。議論はほとんど起きなかった。数字は事前に全部通してある。社長は「よくまとまっている」と言って、次の議題に移った。私が半年かけて作ったものは、議事録に4行で残った。
本番は、そのあとの社員説明会だった。3拠点で計5回。私は登壇しない。壇上に立つのは人事部長で、私は後ろの壁際に立って、質疑のときにだけ耳打ちをする役だ。それでも、資料の全ページを書いたのは私だった。
第二工場の回、質疑の時間に最初に手を挙げたのは、40代前半の課長だった。「調整給が終わったあと、下がる人はどれくらいいるんですか」と聞かれた。人事部長が私の方を見た。私は一歩前に出て、マイクを受け取って、「下がるのは43人です」と言った。自分の声が、思ったより低く響いた。腹に力を入れていたせいだと思う。「全体の3.5%です。3年の調整期間を置きます」。付け足した数字は、質問されていなかった。
会場は、静かだった。怒号も、ざわめきもなかった。質疑は12分で終わって、予定より18分早く解散になった。人事部長は「上出来です」と言ってくれた。
田淵さんは、3列目の右端に座っていた。手は挙げなかった。資料をめくる速さが、周りの人と同じだった。目が合ったので、私は会釈をした。田淵さんも、会釈を返してくれた。それだけだった。
田淵さんへの個別の説明は、対象者面談として、翌週に上長がやる段取りになっていた。私は同席しなかった。同席する立場ではない、というのが表向きの理由で、本当のところは、たぶん、行きたくなかった。◎を6つしかつけなかったノートの、その1人に、私は名簿の3行目を作った側として会いたくなかった。順番を、後ろに回した。回せる仕組みになっていることに、少し安心した自分がいた。
帰りに、駅ビルの地下でプリンを買った。ひとつ380円の、瓶に入ったやつだ。ホームのベンチで、電車を1本見送りながら食べた。よくできた仕事をしたあとの、いつもの手順だった。甘かった。甘いということしか、分からなかった。
後記 ―― 一年後の、四月の名簿
制度は、翌年の4月に施行された。滑り出しは悪くないと聞いている。評価者研修は2回追加になった。若手の一部で、等級が2段飛びで上がった人が出て、社内報にその人のインタビューが載ったそうだ。社長が言っていた「若手が報われる会社」は、少なくとも形にはなった。
田淵さんは、その年の3月末で退職した。定年まで、あと5年あった。人事部長がフォローの電話をくれたとき、その名前は「退職者の内訳」のなかに、他の11人と一緒に出てきた。理由は「家庭の事情」となっていた。制度のせいかどうかは、分からない。分からないというのは、便利な言い方だと思う。調整給の1年目は、差額の全額が補填される。だから、去年の田淵さんの手取りは、ほとんど減っていないはずだ。減るのは、これからだった。
私はいまも、あの3年という数字が間違っていたとは思っていない。5年にしていれば辞めなかったかというと、そんな単純な話ではない。制度は正しく設計できた。原資は中立で、レンジは市場水準で、移行措置は相場どおりで、説明会は12分で終わった。全部、正しい。
ただ、名簿を五十音順に並べ替えたときの、あの指の動きだけを、なぜか覚えている。あれは仕事の手順ではなかった。43という数を、43人にする作業だった。自分でそうしておいて、私はその名簿の3行目に、先に会いに行かなかった。
次の案件も、人事だ。今度は、もっと大きい会社の等級統合をやる。矢島さんからの内線を受けたとき、私は「はい」と即答した。専門を持つというのは、そういうことだ。私はまた、原資中立という言葉を使うだろう。
先週、あの駅ビルの地下を通った。プリンの店は、なくなっていた。跡地は、ナッツの量り売りの店になっていて、女性が二人、透明なケースを覗き込んでいた。ひとつ380円だったな、と思った。それだけのことを、私は工場の樹脂のにおいと同じくらい、はっきり覚えている。覚えていることと、役に立つことは、たぶん別だ。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。