統合初日に、給湯室が二つあることに気づいた
制度もシステムも一つにした。なのに現場には給湯室が二つあった――対等合併のPMIで、名取が炎上から決着、そして一年後の給湯室までを綴った記録。
対等合併、という言葉を、僕はこのPJで初めて「重い」と思うようになった。
案件は、地方を地盤にする創業60年の食品会社2社の経営統合。売上規模はどちらも200億円台で、10億円の差もない。だから「対等」と社外には説明されている。名取です、入社5年目、統合後の管理部門をどう一つにするかのチームにいた。制度も、会計システムも、組織図も、僕らは4ヶ月かけて「一つ」に設計した。統合基本契約書には両社の社長がそろって判を押し、統合記念のロゴまで新しくなった。帳票の上では、統合はもう終わっているはずだった。
初日、統合後の本社になった建物に行って、僕はすぐに違和感に気づいた。3階のフロアに、給湯室が二つあった。エレベーターを降りて右に一つ、突き当たりの角にもう一つ。片方はA社の人が、もう片方はB社の人が使っていた。誰も「そう決めた」わけではない。ただ、なんとなく、そうなっていた。右の給湯室にはA社が使い慣れたドリップの機械があり、角の方にはB社が創業以来使ってきたという古い電気ポットが置いてあった。僕はそれを見て、ああ、まだ何も統合されていない、と思った。組織図の上で消えた線が、床のタイルの上ではまだ生きていた。
炎上 ―― 締め日が10日ずれるということ
炎上のきっかけは、経費精算の締め日だった。A社は月末締め、B社は20日締め。制度上は「統合後は月末締めに寄せる」と決まっていた。決まっていたし、全員に通知もした。統合手引きの37ページ目に、太字で書いてもいた。でも、B社の経理課の人たちは、20年間20日締めでやってきた。締め日が10日ずれるだけで、彼らの一年の段取りが全部ずれる。「決めたことだから」で押したら、B社の経理課長が、200人が集まった統合説明会で立ち上がって言った。
「対等って言いましたよね。なんでうちのやり方だけ、全部なくなるんですか」
課長は50代半ばで、B社に大卒で入ってからずっと経理一筋の人だった。声は震えていなかった。むしろ、静かだった。静かだから、余計に響いた。会議室が静かになった。僕の隣で、統合推進室のA社側の部長が、小さく舌打ちをした。その舌打ちが、B社側の全員に聞こえた気がした。あとで分かったが、実際に聞こえていた。翌日、B社側の担当者から「あの舌打ちが答えですよね」というメールが、僕のところにだけ来た。宛先が僕だけだったことが、なぜか一番こたえた。
その日の夕方、統合推進室に両社の部長が呼ばれて、30分だけのはずの打ち合わせが2時間になった。A社側は「もう決めた、蒸し返すな。ここで揺らいだら他の百項目も全部ひっくり返る」と言う。実際、その通りではあった。締め日を戻せば、次は勘定科目の呼び方、その次は稟議の決裁ラインと、燃える場所はいくらでもあった。B社側は「話が違う、対等ならなぜ全部A社に寄せるのか」と言う。二人とも正しかった。正しい人が二人いる部屋は、いちばん動かない。
その夜、僕は板挟みの真ん中にいた。マネージャーの久我さんは、コンビニのレジ前で肉まんを二つ買って、一つを僕に渡しながら言った。「名取、こういうのは正論で押すと10年もめる」と。「制度は正しい。でも正しさで人は動かない。特に、負けた側だと思ってる人は。締め日はきっかけで、燃えてるのは締め日じゃない」
負けた側。対等合併なのに、そういう言葉が現場では生きていた。僕はそのとき、自分の作った移行スケジュールのガントチャートを思い出していた。締め日統一のバーは、たった3日分しか引いていなかった。3日で済むと思っていた。20年を、3日で畳めると思っていた。
谷 ―― 20年の段取りを、雑に消していた
いちばんきつかったのは、その週の木曜だった。僕は両社の経理の実務担当を集めて、締め日の移行スケジュールを一緒に作り直す会議を仕切った。90分の予定が、3時間になった。B社の担当者が、20日締めでないと回らない理由を、一つずつ、具体的に挙げていく。そのどれもが、机上の設計では見えなかった、生活のような理由だった。
取引先の請求書が20日過ぎに集中して届くこと。月末はどうしても製造ラインの棚卸しと重なって、経理のパートさんが二人しか出られないこと。そのパートさんの一人は保育園のお迎えがあって、17時には必ず上がること。20日締めなら、その制約の中でも20年間、一度も締め遅れを出さなかったこと。担当者は手書きの月次カレンダーを机に広げて、「この赤丸が全部ずれるんです」と言った。赤いボールペンで囲まれた日付が、ページの端まで続いていた。20年分の、身体に染みた段取りが、そこに折り重なっていた。
僕は途中から、自分たちの「正しい設計」が、誰かの20年をただ雑に消そうとしていたのだと分かってきて、少し気持ちが悪くなった。設計の効率という言葉で、僕は人の生活を四捨五入していた。会議の最後に、A社側の若い担当者が「でも、いつかは一つにしないと」と正論を言った。正しかった。正しかったから、B社の担当者は何も言い返さず、ただカレンダーを静かに閉じた。その閉じる音のほうが、どんな反論よりも重かった。
夜23時、会議室を出て、二つある給湯室の、どちらでもない廊下の自販機で、微糖の缶コーヒーを買った。130円。冷たかった。フロアはもう暗くて、非常口の緑のランプだけが点いていた。缶を持ったまま、僕はB社側の給湯室を覗きに行った。あの古い電気ポットには、油性ペンで「熱湯注意」と書いた黄ばんだテープが貼ってあった。テープの角がめくれていた。誰かが20年、毎朝スイッチを入れてきたポットだった。僕の設計図には、このポットは存在しなかった。存在しないものを、僕は消そうとしていた。缶コーヒーは、飲み終わるころにはぬるくなっていて、でも僕はそれを最後まで飲んだ。捨てるタイミングを、逃していた。
その週末、僕はオフィスで一人、移行案を作り直した。土曜の朝10時から、日曜の夜まで。エクセルのシートを開いては閉じ、また開いた。効率のいい案は、30分で作れた。作れたが、それはあの木曜のカレンダーを、もう一度赤ペンごと消す案だった。僕は久我さんの「感情」という言葉を、初めて設計の変数として置いてみた。置いた瞬間、答えは一つに絞れなくなって、でも、絞れないことのほうが正しい気がした。
決着 ―― 半年という減価償却
結局、締め日は「半年かけて段階的に月末に寄せる」という、設計上は不格好な移行案に落ち着いた。効率だけ見れば、最初から月末に寄せた方がいい。でも、それをやったら、B社の経理は「負けた」まま統合を迎える。久我さんは「半年は、感情の減価償却期間だよ」と言った。うまいことを言うな、と思った。思ったが、笑えなかった。
僕がこの移行案でこだわったのは、数字ではなく、順番だった。最初の3ヶ月は20日締めと月末締めを併走させる。次の2ヶ月で25日締めに寄せる。最後の1ヶ月で月末に統一する。経理の実務からすれば、二重運用が続く地獄のような半年だ。締め作業が月に二回来る月もある。効率のプロが見たら落第の設計だ。実際、A社側の部長は最初、「そんな回りくどいことをする意味があるのか」と渋った。僕は「意味はありません。効率だけなら」と正直に言った。「ただ、これは効率を買う案じゃなくて、時間を買う案です」と。自分でも、どこまで信じて言っているのか分からなかった。少しだけ、格好をつけていた気もする。
でも、B社の課長は、この案には反対しなかった。移行案を説明したあと、課長は資料をしばらく見て、それから「せめて、慣れる時間があるなら」と言った。慣れる時間。それは、僕らが最初の設計図から、まっさきに削り落としていたものだった。効率という名前で削ったものに、こんなにも別の名前があるとは思わなかった。課長は最後に、「A社さんも、うちに寄せる項目、一個くらいあるといいんですけどね」と、冗談とも本気ともつかない口調で言った。僕はそれを議事録に書かなかった。書けなかった。でも、覚えている。
この案が通ったのは、久我さんが最後に一つ、A社側に条件を足したからだった。「移行の半年は、締め遅れが出ても、B社の責任にしない」。運用が二重で回る以上、どこかで数字がずれる月は必ず出る。そのとき、それをB社のミスとして記録に残せば、半年は減価償却ではなく、ただの減点期間になる。A社側の部長は、しばらく黙ってから「そこまでやるか」と言い、それから「分かった」と言った。分かった、の前の沈黙の長さを、僕は今でも時々思い出す。あの沈黙の中で、誰かが誰かに、たぶん初めて、席を半分譲った。
半年の二重運用は、本当に地獄だったと後から聞いた。締め月には、B社の経理が終電で帰る日が続いたらしい。棚卸しと締めが重なる月は、あのパートさんも二日だけ残業を引き受けたという。僕はその現場にはもういなかった。PMIの最初の三週間で、僕のフェーズは終わっていた。設計した地獄を、僕は最後まで見届けなかった。それが、少しだけ、ずるいと思っている。地獄を描いた人間が、地獄に立ち会わずに次の案件へ移る。コンサルという仕事の、いちばん言いにくいところだ。
後記 ―― 一年後の給湯室
三週間目の金曜、僕は3階のフロアをもう一度見に行った。給湯室は、まだ二つあった。エレベーター右の機械も、角の古いポットも、そのままだった。でも、A社の若手が、B社側の給湯室でお茶を淹れているのを一度だけ見た。あの「熱湯注意」のポットで、湯を注いでいた。それだけのことが、僕には四ヶ月の設計より意味があるように見えた。意味があるように「見えた」だけかもしれない。でも、見えたことは確かだった。
一年後、久我さんが別件の飲みの席で教えてくれた。あの会社は、フロア改装のときに、給湯室を一つにしたらしい。誰も反対しなかったそうだ。あの古いポットは、さすがに処分されたという。締め日でもめたことを覚えている人は、まだ何人もいる。でも、若手には、もうA社もB社もない。「一つにできたのは、名取の移行案のおかげだよ」と久我さんはビールを傾けながら言ってくれたけれど、僕はそうは思わない。あの半年の二重運用を耐えたのは経理の人たちで、給湯室を一つにしたのは、たぶん、あの説明会で立ち上がった課長が定年で去るまでの、静かな時間だった。課長は、去年の春に定年を迎えたと聞いた。
このPMIが成功したのか、僕にはまだ分からない。帳票の上では、統合はとっくに終わっている。現場の給湯室が一つになるのは、その締め日でもめたことを覚えている人が全員いなくなったときだ。それは、僕の設計の手柄ではない。時間の手柄だ。コンサルは時間を買えない。半年を「感情の減価償却期間」と呼んでみたところで、僕らがしたのは、時間が過ぎるのを邪魔しないように設計を組んだ、それだけのことだった。買えないものがあると知ったのが、この三週間で僕が得た、たった一つの確かなことだった。29歳でそれを知ったのは、たぶん、早い方がいい。次のPJで、僕はまた「正しい設計」を作る。作りながら、その設計が誰の20年を畳むのかを、今度は最初のページで考えるようにはなった。あの黄ばんだテープの角が、まだ少し、目の裏に残っている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。