体験記 No. 04

「示唆は?」と十回聞かれて、示唆が出せなかった最初の十日

案件工作機械メーカー・DX戦略
話の中心立ち上がり
語り手立石 / 31歳・中途入社1年目
読了約8分 · 5,100字
案件の時間軸 ―― 着任から最終報告までの、ひと通り
アサイン
立ち上がり
仮説構築
中間報告
最終報告
議事録に赤が28箇所データはあるのに使われない朝礼のホワイトボードは40年

事実なら誰よりも詳しい。なのに「示唆は?」に一行も返せない――事業会社から来た立石が、前職の強みが通用しないと知った立ち上がりから、現場がタブレットに触れない壁を前職の目線で越え、その先までの記録。

「立石さん、で、示唆は?」

入社して11ヶ月、僕はこの一言に、まだ心臓が少し縮む。マネージャーの藤堂さんは意地悪で言っているわけではない。むしろ丁寧な人だ。ただ、僕が20分かけて説明した内容に対して、最後にこの一言が来ると、僕の20分は「事実の羅列」に分類され直す。事実は、示唆の材料であって、示唆ではない。

僕は31歳で、前職は中堅の機械商社の企画部にいた。9年いた。工作機械の業界のことなら、正直、このPJのクライアントの若手より詳しい自信がある。だからこの案件にアサインされたとき、少しだけ、勝てると思っていた。10日で、その慢心はきれいに折られた。

立ち上がり ―― 事実は完璧、示唆はゼロ

案件は、創業92年の工作機械メーカーのDX戦略。現場にはIoTのセンサーが入りかけていて、でもデータは取れているのに使われていない、という、この手のPJでいちばんよくある壊れ方をしていた。

初日、僕は張り切って現場の課長にインタビューをして、生産ラインの停止要因を12種類、細かく聞き出した。前職の勘で、どこが痛みどころかは手に取るように分かった。夜、その12種類を1枚のスライドにまとめて、藤堂さんに見せた。

「よく聞けてる。事実として完璧。で、だから何を提案するの?」

僕は詰まった。12種類の停止要因は「ある」。でも、それをどう並べ替えて、どこに手を打つべきで、なぜ今それなのか、という「線」が引けなかった。僕は事実の在庫を、ただ棚に並べていた。

議事録でも同じことが起きた。僕の書く議事録は長かった。発言をほぼ全部拾うから、正確ではある。でも藤堂さんが赤を入れて返してきたものは、28箇所が消されていて、残った文が3行だった。その3行は、僕が「重要じゃない」と思って軽く書いた部分だった。「議事録は録音の書き起こしじゃなくて、“次に何が決まらないと進まないか”のリストなんだよ」と藤堂さんは言った。僕は9年間、事業会社で議事録を書いてきた。誰も文句を言わなかった。ここでは、その9年が一回、無効になる。

夜、ホテルの近くのサイゼリヤで、間違い探しのような気持ちで自分の議事録と藤堂さんの赤を並べた。ドリンクバーのメロンソーダを2回おかわりして、結局ほとんど飲まなかった。悔しさより、少し怖かった。20年後もこの業界にいる自信はあったのに、この会議室での3ヶ月を生き延びる自信が、いまはない。隣の席で高校生が数学の宿題を見せ合って笑っていて、その普通さが、なぜか一番こたえた。

転機は、たいした転機じゃなかった

8日目、僕はいつものように停止要因の話をしていて、途中で「……この3つは、実は同じ原因なんじゃないかと思っていて」と、根拠のないことを言ってしまった。言ってから、しまった当てにいった、と思った。でも藤堂さんは初めて身を乗り出して、「それ、どういうこと?」と言った。僕がしどろもどろに、現場の課長の顔色と、センサーの位置と、シフトの組み方を結びつけて話すと、藤堂さんは「それが示唆だよ」と言った。

拍子抜けした。示唆というのは、確からしい事実を積み上げた先にあるものだと思っていた。違った。事実の隙間に、自分の勘で線を引いて、「間違ってるかもしれないけど、こう見えます」と言い切ることだった。事業会社の僕は、間違えないための事実を集めるのが仕事だった。ここでは、間違えるかもしれない線を引くのが仕事だ。

10日目の夜、僕は初めて、議事録を3行で書けた。3行のうち1行は、たぶん間違っている。それでいい、と藤堂さんは言うだろう。9年ぶんの現場知は無駄になっていない。ただ、それを「棚に並べる」のをやめて、「線を引く材料」に使い直す。その使い方を、僕は31歳で、入社11ヶ月で、いまさら習っている。

中盤 ―― DXの本当の壁は、技術じゃなかった

線が引けるようになると、PJは少し前に進んだ。僕らは停止要因の12種類を、原因の系統で3つに束ね直し、いちばん効くセンサー活用の打ち手を提案した。技術的には、難しくない。既にあるデータを、現場が見られるダッシュボードに出すだけだ。SIerの見積もりも取った。開発は4週間で終わった。デモの日、役員も部長も「これは分かりやすい」と頷いた。僕は、これで山を越えたと思った。

問題は、そこからだった。ダッシュボードを作っても、現場の班長たちが見ない。見ないというより、見る習慣が生活の中にない。第二工場の朝礼は、紙のホワイトボードでやってきた。40年、それで回ってきた。班長の佐久間さんは勤続34年で、白墨で書いた停止時間の数字を、指の腹でこすって消すのが癖だった。そこにタブレットを一枚置いても、誰も触らない。導入から2週間、アクセスログを見ると、ダッシュボードを開いた回数は、第二工場全体で1日あたり0.4回だった。しかもその大半は、僕が「見てくださいね」と横に立っている時のものだった。

僕は前職で、まさにこの「現場が新しいツールを使わない」側にいた人間だった。商社の企画部にいた頃、本部が導入した営業支援システムを、僕自身が半年間ほとんど開かなかった。理由は単純で、開かなくても仕事が回ったからだ。開くと一手間増えて、開かないと何も減らない。班長たちが画面を無視する気持ちが、痛いほど分かった。ダッシュボードは、彼らの一日の中で「増える手間」の側にいた。

コンサルの資料は、この構図を見落としがちだ。「現場の意識改革」とか「データドリブンな文化の醸成」とか、そういう言葉でひとくくりにする。でも意識の問題じゃない。佐久間さんたちは、意識が低いから見ないんじゃない。見なくても34年間、不良を出さずに工場を回してきたから見ないのだ。彼らの体には、画面に頼らなくても異音でベアリングの寿命が分かる、みたいな計器が20年ぶんも埋まっている。その計器を持っている人に、「これからはこの画面を信じてください」と言うのは、利き手を変えろと言うのに近い。前職の僕は、その利き手を変えさせられそうになって、ただ黙ってやり過ごした側だった。

藤堂さんは最初、研修とマニュアルで押す案を持っていた。使い方講習を2回開いて、操作手順書を配って、部長から「毎朝見るように」と号令をかけてもらう。正攻法だ。でも僕は、それは効かないと思った。前職で、まったく同じことをやられて、まったく効かなかったからだ。号令がかかった週だけ開いて、翌週には元に戻る。手間の増減という一番地味な力学の前では、部長の号令は3日で溶ける。

ある日の昼、僕は佐久間さんに、工場の食堂で昼飯を一緒に食べさせてもらった。日替わりの生姜焼き定食が480円で、味噌汁が信じられないくらい熱かった。世間話のふりをして、「あのタブレット、正直じゃまですか」と聞いた。佐久間さんは笑って、「じゃまっていうか、あれ見てる間に、俺は現場を一周できる」と言った。その一言で、僕は自分たちの間違いが分かった気がした。僕らは、班長に「画面を見る時間」を新しく作らせようとしていた。でも彼らの朝は、1秒の余りもなく現場を歩くことで埋まっている。画面は、その歩く時間を奪う敵だった。

ここで、棚に上げていた9年が、初めて武器になった。僕は藤堂さんに、「ダッシュボードの前に、朝礼のホワイトボードの隣に紙で一枚、同じ数字を貼るところから始めさせてください」と提案した。ダッシュボードのデータを、毎朝5分だけ、僕が手で印刷して、白墨のボードの真横に貼る。効率は最悪だ。DXっぽさは、かけらもない。自動化された画面を、わざわざ人間が紙に出す。逆走しているようにしか見えない。でも、現場は「紙で見慣れた数字が、実はこのタブレットにも出てる」という順番でないと、画面を信じない。信じてもいない画面を、習慣にはできない。

藤堂さんは少し考えて、「立石がそう言うなら」と乗ってくれた。ただ一つだけ条件をつけた。「紙をいつ剥がすかは、最初に決めておこう。剥がすゴールのない移行計画は、ただの後退だから」。僕らは、紙とタブレットの数字が3週間ずれなく一致したら、紙の枚数を半分に減らす、と決めた。地味な撤退戦のような設計図だった。

紙を貼るのは、毎朝6時50分の仕事になった。工場の事務室の複合機は古くて、A3を一枚出すのに40秒かかる。その40秒、僕は排紙口をぼんやり見ながら、これは本当にコンサルの仕事なのか、と毎朝ひとりで思っていた。単価の高いはずの僕の時間が、印刷の待ち時間に溶けていく。でも、この40秒を惜しんで研修と号令に頼ったら、たぶん全部が無駄になる。効率の悪いことを、正しいと信じてやり続けるのは、思っていたよりずっと胆力がいる。

紙を貼り始めて最初の週、やっぱり誰も何も言わなかった。ただ、佐久間さんが一度だけ、貼った紙のグラフを指で追って、「先週より、段取り替えの停止が増えてんな」と、独り言のように言った。それが、この工場で誰かが初めて、ダッシュボードの数字を自分の言葉にした瞬間だった。僕は嬉しさより先に、これはまだ紙の手柄で、画面の手柄じゃない、と冷静に思った。自分の中の何かが、少しずつコンサル側に寄っていくのを感じて、それが良いことなのか、僕にはまだ分からなかった。

3週目、紙とタブレットの数字が初めて完全に一致した週、僕は約束どおり紙を半分に減らした。減らした翌朝、若手の一人が「あれ、今日の停止時間どこですか」とタブレットを自分から開いた。班長にではなく、機械に聞いた。僕はそれを、少し離れたところで見ていて、口の中で小さく、勝った、と言った。誰にも聞こえないように。9年前、システムを開かなかった僕自身に向かって言ったのかもしれない。

最終報告と、その先

最終報告は、派手ではなかった。「DXで生産性が何%向上」みたいな見出しの数字も、正直まだ出ていなかった。僕らが報告したのは、停止要因の可視化の仕組みと、それを現場が「見る習慣」に落とすための、恥ずかしいくらい地味な移行計画だった。紙を何枚貼って、いつ何枚に減らして、どうなったら剥がすか。スライドの一枚は、ほとんど工作の工程表のようだった。役員のひとりは「もっと劇的な変化を期待していた」という顔をしていた。DXという言葉には、そういう過剰な期待がいつも貼りついている。

報告のあと、その役員が藤堂さんに「この紙のやつは、コンサルの仕事なんですか」と半分冗談で聞いた。藤堂さんは「これがいちばん難しい仕事です」と真顔で返した。僕は隣で、その言葉を自分に向けられたもののように受け取った。

後記 ―― 半年後、班長が画面を指した

半年後、僕は別件でその工場に立ち寄る機会があった。朝礼を、遠くから見た。ホワイトボードの隣の紙は、なくなっていた。代わりに、佐久間さんがタブレットの画面を指して、若手に何か言っていた。停止要因のグラフだった。紙という補助輪が外れて、画面が現場の言葉になっていた。あとで聞くと、紙を最後の一枚まで減らしたのは、僕らの計画より2週間早かったらしい。「あんなもん、いつまでも刷ってられっか」と佐久間さんが言って、自分で剥がしたのだという。

それを見て、僕は最終報告のときの、あの物足りなさそうな役員の顔を思い出した。DXの成果は、報告会の日には、たいてい出ていない。出るのは、報告会が忘れられたころ、現場の朝礼のような、誰も写真を撮らない場所でだ。僕らが引いた線が正しかったのか、それとも佐久間さんがたまたま真面目だっただけなのか、本当のところは分からない。分からないが、あの紙を外したのは、僕らの計画ではなく、現場の誰かの判断だった。それでいい、と今は思う。むしろ、僕らの手を離れたところで剥がされたことが、この計画がいちばんうまくいった証拠なのかもしれない。それを成果として報告する場は、もうどこにもないけれど。

まだ「示唆は?」で心臓は縮む。ただ、縮んだあとに、前より少し早く口が動くようにはなった。それが成長なのか、慣れなのか、僕にはまだ区別がつかない。ひとつだけ確かなのは、前職の9年を「無効」だと思って落ち込んでいた最初の10日の僕に、それは棚に上げるだけで、捨てるんじゃない、と言ってやりたい、ということだ。棚から下ろすタイミングは、たぶん自分では選べない。あの食堂の、熱すぎる味噌汁のような、なんでもない場面で、向こうから勝手にやってくる。

ことわり

この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。

しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。

この話の翌週、あなたなら何をする?

同じ現場に立ったとき、どう動くタイプなのか。16問で当たりをつけられます。

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